旅日記,随想,俳句など…

フィレンツェ美術館めぐり3

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4.ボローニャ訪問 

フィレンツェの最後の日(4月19日月曜日)にはラファエロが生まれたウルビーノへ行くことにした.ウルビーノは,フィレンツェからほぼ真東に位置していて,直線距離で100キロ程度であるが,鉄道で行くにはボローニャに出て,そこでアドリア海の海岸沿いの路線を走る列車に乗り換えペーザロ駅で降り,ペーザロからはバスを使えばほぼ1時間でウルビーノに行ける.16日の夜にインターネットでイタリア鉄道TRENITALIAのホームページから列車の予約を入れておいた.このインターネット予約は,24時間以内に切符を購入すれば良いことになっている.実は,カード決済によりインターネット予約を完了することが出来るのであるが,現在の私は,それが出来ない.その理由がずっと分からなかったのであるが,今回,イタリア鉄道TRENITALIAのホームページ上でいろいろ調べてその理由が分かった.以前に同じユーザIDで別のクレジットカードを使おうとしたことがあった.そのことが原因のようである.ホームページに一人で2つの別のクレジットカードを使おうとすると拒否される,とある.それを解除する方法もあるのだが,そのページはイタリア語のみで書かれており,最後まで完了することが出来ない.予定が決まっているときには,早期割引があり,カード決済によるインターネット予約はおすすめである.

しかし,いまのわたしはカード決済が出来ない.また,昨日のインターネット予約では,ウルビーノからの帰りにボローニャ市内を観光する予定であったが,ボローニャ市内の観光を先にしてウルビーノに向かうように変更することにしたので,17日の夕方,17時15分,フィレンツェSMN駅(写真31)で翌々日のフィレンツェ−ペーザロ往復のインターネット予約を変更した切符を買うために並んだ.長蛇の列である.前日(16日)の夕方も20日のミラノ行きの切符を買うために並んだが,そのときの列の2倍以上はある.そのときは1時間程度であったので,今日は,2時間は覚悟しなければならないのか.それにしても不思議だ.10ほどの出札口が全部開いているわけではない.半分くらいは閉まったまま,あとの半分でこの長蛇の列の客に対応している.全部の出札口を開けて早く処理しようという考えはないようだ.博多駅で切符を買うためにどんなに混んでいても10分以上待った覚えはない.
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写真31 フィレンツェSMN駅の中

そのうちに太ったイギリス人と思われる若者が,自分は18時の列車に乗りたいのだが先に行かせてもらって良いかと後の方から順々に言ってきた.もう17時50分に近かった.もちろん,こちらは何の不都合もなく先を譲ったが,そんな調子では,出札口にたどり着いたあたりで列車が出発するのではないかと心配になった.私より2,3人前の人が,それなら自動発券機で買えば良いと教えていた.自動発券機の前にも人が並んでいるが,そこはせいぜい数名である.しかし,この発券機も一人ひとりに要する時間が長い.はじめに言語として英語を選んでも,次に出発地と到着地を選択しなければならない.さらに,日にち,時間,列車,枚数,等級,支払い方法などを次々に選択して行かねばならず,機械の前で考え込んでいる人も多い.イタリア鉄道としては最新の自慢の機械なのであろうが,こちらが選択しなければならない項目が多すぎて困ってしまう.

このイギリス人が上手く切符を買えたかどうか心配であったが,そのあと変な若い中国人が紛れ込んできて,どうなったか確認できないままとなった.出札口から伸びた列は,出札口とは反対の方の壁で折り返していた.われわれはちょうど折り返しのところに来ていた.壁は透明で,壁の向こうの売店が見えていた.若い中国人がその壁の向こうを見て,サンドウィッチを食べながら歩いて来た.ものを食べるために壁際に来て,食べ終わったらまたいなくなるものと思っていたが,食べ終わっても去ることもなく,はじめから列にいたような顔をして居座ってしまった.ハッキリした割り込みである.うしろのロシヤ人らしい2名のお嬢さんも不満そうではあったが,ことをあら立てることもしなかった.そのうちに中国人が携帯電話を出して大きな声で話し始めた.電話が終わると私のすぐ後ろに立って,チッチッと口を鳴らし,落ち着きなく身体を動かしている.私は,背中に担いでいるバックパックが気になるので,背中から下ろして手に持ったり,家内にもってもらったり,また,出札口の方を向いていた姿勢を90度以上回して斜め前方向に中国人が見えるような位置関係にしたり,いろいろな対策を強いられた.そのうちにその相棒の女性が現れて,また,大きな声で話し始めた.たくましといえば,たくましいのかも知れないが,すぐ近くにいる他人にとっては,何とも迷惑な中国人ペアであった.

無事に出札口にたどり着いて,ボローニャ市内の観光を先にしてフィレンツェ−ペーザロ往復の切符を手に入れ,中国人ペアの影響を逃れることが出来たのは19時52分であった.ボローニャまでの切符に座席の番号がプリントしていないのが気になったが,まあ取り敢えず切符が手に入ったので安心してホテルに帰った.切符を買うために2時間40分も長い列に並び,しかも大きなストレスの中で耐えたのは,これも外国旅行の得難い経験なのかも知れない.

4月19日(月)は,8時発の列車に乗るために7時半過ぎにホテルを出た.列車は昨夜調べておいたプラットフォームから出るようだ.イタリアでは,出発プラットフォームはしばしば直前になって変更になったりするので,電光掲示板を常に注意しておかねばならない.8時発のトリノ行きユーロスターでボローニャに向かう.ボローニャに到着する時間は8時38分.ボローニャからウルビーノへのバスが出ているペーザロへ向かう列車は11時50分なので,この3時間余りの時間を使ってボローニャの中心部を観光する予定である.

列車に乗って,17日に苦労して手に入れた乗車券に席の番号が印字されていない理由が分かった.満員なのである.切符をよく見ると座席番号あるべきところにposto non garantitoという文字が印字されている.postoは座席のことであろう.ボローニャ−ペーザロの切符にはposti 25, 26とある.2つの予約座席を印字している.postoが複数形になるとpostiに変化する.そういえば,以前にイタリアで勉強したことのある若い研究者からイタリアでは着物kimonoは,複数形になるとkimoniになりとても気持ち悪く感じたという話を聞いたことを思い出した.non garantitoは英語でいえばno guaranteeということが今になってはじめて気がついた.つまり,はじめから立ち席である.

しかし,私が17日の前夜にインターネットで予約したときにはすべての席が確定していたはずである.それで17日に苦労して切符を手に入れた後,変更していない列車の座席の番号がないことにいぶかった時には,このイタリア語に目がいかなかった.それにしても,フィレンツェ駅の駅員はけしからん.予約番号を示し,そのうちのフィレンツェ—ボローニャはそのままにして,ボローニャ—ペーザロを9時50分発のものから11時50分発のものに変更してほしいと,言葉では正確に伝わらない可能性もあるので紙に英語で書いて渡したはずである.駅員は予約を更新するのではなく,予約をキャンセルして,フィレンツェ—ボローニャ,ボローニャ—ペーザロの2つの切符をまったく新しく発行したのである.そのため,座席が確保できなかった.ここでもイタリア鉄道のやることは理解に苦しむ.まさか私の書いた英語が読めなかった訳でもあるまい.

いまとなっては仕方なく,ボローニャまではデッキのところで立っていくことにした.フィレンツェからボローニャへはほぼ北上することになるが,南東から北西の方向に走っているアペニン山脈を横断することになる.時間も30分余りなのでたいしたことはない.ipodで志ん生の「搗屋幸兵衛」を聞いているうちにボローニャに着いてしまった.ボローニャはイタリアにおける交通の要所である.一つは,ローマからヴェネツィアへの道と,もう一つは,アドリア海の海岸沿いの町々からミラノへの道がここボローニャで交わっている.交通の要所であることから古くからさまざまな文化が花開いた.11世紀にヨーロッパ最古の大学が創られたのはここボローニャである.

ボローニャ駅から市の中心部,マッジョーレ広場までは1キロである.ボローニャの街を特徴付けるものにポルティコ(柱廊)(写真32)がある.ポルティコは建物の通りに面した一階部分を人が歩けるようにしたもので,雨の日などここを通って行けば濡れなくてすむありがたいものである.中世の一時期,このポルティコを作ることが禁止されたが,自由都市ボローニャではそのような禁止令はものともせず次々にポルティコを作っていったという.パドヴァもポルティコがたくさんあり,1年半前パドヴァを訪れたとき駅からホテルまでそのポルティコのおかげで雨をしのいで歩くことができた.パドヴァのポルティコに比べるとボローニャのものは大きくて立派だ.高さは1階分を超えて2階の一部にまで達しているのもある.
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写真32 ボローニャのポルティコ

15分ほど歩いて中心部のマッジョーレ広場に到着した.広場の入口にネプチューンの噴水があり,その両側に市庁舎,ポデスタ館(エンツォ宮殿)がある.さらに進んだ広場の正面にサン・ペトロニオ教会がある.サン・ペトロニオ教会の中央入口の上に聖母子と二人の聖人らしい彫刻があった.初期ルネサンスの傑作の一つであるという.しかし,高いところにあり,また,煤けていてあまり立派な彫刻には見えない.初期ルネサンスの傑作であるなら,もう少し別の扱いようがあるだろうと思ったが,イタリアには傑作がいたるところにゴロゴロしているので,これでよいのかも知れない.その中央入口から中に入ってみた.天井がやけに高い.その高い天井から長い振り子が小さく揺れている.フーコーの振り子である.振れ面の真下に文字盤のようなものがある.なるほど,これはこのままで,時間を刻んでいるのだと納得した.

サン・ペトロニオ教会の東隣には旧ボローニャ大学がある.ボローニャ大学はヨーロッパ最古の大学で1088年に創設された.現在でもボローニャ大学はイタリア第二の規模を持つ総合大学であり,ここより1キロ北東に行ったところにキャンパスを持っている.旧ボローニャ大学の一部は市立図書館になっており,当時の権力に逆らって世界ではじめて人体解剖を行った解剖教室が一般に公開されている.パドヴァ大学の解剖教室に比べて一回り小さい.しかし,4つの壁や天井の装飾は立派である.これらの装飾ははじめのからのものなのだろうか,それとも後から次々に加えられていったものであろうか.おそらく後者なのだろう.天使や聖母マリアらしき像の他に聖人か解剖学者のような像が飾られている(写真33).天井にはさまざまな細かい装飾の中心に裸体像(男)がぶら下がり固定されている.解剖のための教室というよりは,芸術の部屋のようだ.教室の入り口にいる係員にいろいろ英語で聞こうとしたが,私の英語はまったく理解してもらえなかった.パドヴァ大学では€5の料金を支払って英語の案内付きで解剖教室を含めて案内して貰ったが,ここは無料で入場できるが何の案内もない.
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写真33 ボローニャ大学の解剖教室

旧ボローニャ大学の前にある広場にガルヴァーニの銅像があった.ガルヴァーニ(1737-1798)は,ボローニャ大学で医学を学び,解剖学を研究しているときに,カエルの足の実験でガルヴァーニ電池を発見した.ガルヴァーニは生物の中に電気が蓄えられていると誤った考えを持ったが,それはボルタによって電解液と異種の金属間で生じる電気であると正されることとなる.いずれにしろ,ガルヴァーニ電池は電気の研究の契機となった.

ボローニャの斜塔と呼ばれている塔に登ることにした.中世には高さを競って塔を立てたという.現存しているのは2つで,48mと97mの高さの塔である.アッシネリの塔(写真34)と呼ばれる高い方の塔が€3で登れるという.2つとも傾いているというが,マッジョーレ広場の方からの視覚ではその傾きは確認できなかった.約500段の階段は木製で,摩耗しててかてか光っている.塔の頂上からはボローニャの街が一望できる.晴れた日にはアルプスも見えることもあるとのことであったが,確認できなかった.登るときにはそれほど危険を感じなかった木製の階段であったが,下りにはステップの幅も狭いこともあり転げ落ちそうで手すりを持ちながら慎重におりていった.
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写真34 ボローニャの斜塔(アッシネリの塔).

ポルティコをゆっくり歩いてボローニャ駅に戻るとペーザロへの列車の出発前10分程であった.ボローニャの中心を3時間ほど歩き回ったことになる.ボローニャには,まだまだ,見るべきところがたくさんあるように思う.井上ひさし氏が「ボローニャ紀行」で推薦していた産業博物館はそのひとつだ.中世都市の建物もじっくり見たい.3時間ほどの観光では,ほんの一端が見えたに過ぎない.再度,ゆっくりと訪れてみたい都市である.

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