旅日記,随想,俳句など…

フィレンツェ美術館めぐり1

pic43a


フィレンツェ美術館めぐり [2010.4.14-20]



1.フィレンツェへ 

4月14日(水)は,朝9時に一番でルーブル美術館に入り,「モナリザ」,ダヴィンチのコーナーおよびレンブラントの部屋にある作品群にお別れをして,ホテルに取って返した.重い荷物をグラウンド階まで下ろし,エトワール広場のバス停まで歩いた.

10時25分発のエールフランスバスでシャルル・ドゴール空港に向かった.今日は,いよいよフィレンツェに向かう日である.フィレンツェへの飛 行機の発着は2Gターミナルであり,このターミナルは2Aから2Fまでの主要なターミナルとはかなり離れたところにある.空港の無料バスで2Gまでたどり 着くと,かなりローカルな雰囲気がある.スペインのオビエドやドイツのブレーメンなどの近郊のヨーロッパの中堅都市への発着のターミナルのようだ.

空港内にパン屋「ポール」の出店があった.「ポール」は,福岡でも三越デパートの地下二階に出店を出している.美味しいので,休日の昼食にはと きどきこの店のクロワッサンやバケットそれにアップルパイのような「グリルポンム」などを利用させて貰っている.空港内の「ポール」でバケットのサンド ウィッチとクロワッサンを買ってから手荷物検査場を通過して,待合室の売店でビールと水を追加して昼食にした.福岡の「ポール」のパンの味とまったく同じ であった.そのことをあとで福岡の「ポール」の店員に話したら,「嬉しいです」と素直に反応してくれた.福岡の「ポール」に置いてあったリーフレットによ れば,パン屋「ポール」は,1889年にフランス北部のリールで起業した老舗という.材料については,水は「フランス・ヴォージュ地方産」,小麦は厳選さ れたオリジナルブレンドで100%フランス産,塩は「南仏カマルグ地方エグモルト産」を使っているとのことである.これらはパン屋「ポール」の定番なので あろう.まったく同じ材料で作れば同じ味になるのは当然だ.しかし,そのリーフレットには酵母のことはあまり触れていなかった.酵母がどうかは少し気にな るが,とにかくわれわれ二人の舌では,福岡とパリの「ポール」のパンの味について「差はない」という検査結果であった.

フィレンツェに向けての出発は午後1時5分になっている.あとで知ったことであるが,アイスランドで火山の爆発があったのはこの日の午前1時 (フランス時間午前2時)であったという.爆発から10時間もたっていたことになるが,われわれの飛行機は,火山灰に邪魔されることもなくフィレンツェへ 飛び立つことができた.翌日には,多くの飛行機の発着が出来なかったらしい.きわどい一日の差でイタリアへ入ることができた.

フィレンツェの空港は,松山空港と同程度の規模の空港である.いやそれより小さいようにも思える.フィレンツェに飛行機で入るのは初めてであ る.一年半前に来たときには,ローマからイタリア鉄道でフィレンツェのターミナル駅サンタ・マリア・ノヴェッラ (SMN) 駅に直接着いた.SMN駅の正式名称は,Stazione di Santa Maria Novellaである.Santa Maria Novellaは,駅の前にある由緒ある教会の名前である.空港からSMN駅までは5,6キロというところで,青いバスに乗れば20分程度で到着する(運 賃5ユーロ).

今日のホテルは,このターミナル駅から約500メートルである.バッグのローラーをゴロゴロさせながらホテルに向かう.道路は石畳で,ひとつひとつの石が 自己主張しているようにでこぼこが大きい.われわれのバッグは20年前のサムソナイトであり,最近のバッグにある引くための取っ手がない.苦労してバッグ を押しながらボッティチェリ(Botticelli)という名のホテル(写真1)に到着した.ボッティチェリ(1445-1510)は,初期ルネサンス を代表する画家であり,フィレンツェを中心に活躍した.ホテル・ボッティチェリは,写真のように小じゃれたホテルであった.フィレンツェで6泊する間に快 適な環境を与えてくれた.朝食も生ハムやチーズ,果物など,それぞれ,数種類を揃えていて満足できるものであった.また,われわれの部屋には,ボッティ チェリ「柘榴の聖母」中のユリの花を持った天使の模写(写真2)があり,これも気持ちの良いものであった.
pic41a
写真1 ホテル・ボッティチェリ
pic42a
写真2 ボッティチェリ「柘榴の聖母」中の天使の模写(ホテルの部屋)

14日の夕食は,ホテルのすぐ近くのレストランでとることにした.一年半前に来たときに,ある店でカルボナーラとムール貝を注文して,その量と 美味しさに満足した記憶がよみがえった.そのとき,その店からボッティチェリ・ホテルに近いほうに客を数多く集めていた店があった.今回は,その人気店で 食事をすることにした.テーブルと椅子は歩道の上にある.夜は寒いこともありそれらのテーブルと椅子のセットは,ビニールの膜で外気を遮断している.ビ ニールの戸を開けて中に入ると,席は6割程うまっている.ウェイターが用意してくれたテーブルに座ると,すぐにテーブルの上にあったローソクに火をともし てくれた.この店には英語のメニューがない.ウェイターと話しながらカルボナーラとムール貝,トスカーナ風サラダを注文した.注文したあと家内と,いまの ウェイターが映画俳優の誰かに似ているということを話し合ったが,具体的にその名前が出てこない.ウェイターが料理を運んできたときに,「いま,われわれ は君のことをある映画俳優に似ていると話していたのだが,名前が思い出せない」と持ちかけると,すかさず「ロバート・デニーロ」と返答があった.そうそ う,このウェイターは確かにロバート・デニーロの若いときに似ている.他の客からもそう言われているのであろう.ロバート・デニーロは米国の俳優である が,イタリア系の顔をしている.デニーロという名前もイタリア風の名前である.この店は,このロバート・デニーロ君で持っているような店であった.さまざ まなテーブルへの目配りが行き届いている.われわれのテーブルへもさまざま話しかけて来たり,ワインビネガーとオリーブオイルの新しいドレッシングを持っ てきてサラダにかけてくれたり,面倒見がよい.その日から2,3日あとの夕方,店の前を通りかかったときに顔を合わせたが,われわれの顔を覚えていて大げ さな挨拶をしてくれた.しかし,料理の味は前回の店のほうが上である.別の日に,前回の店で食事をしてみよう.

2.ピサとヴィンチ村へ

4月15日は,ピサとヴィンチ村を訪れることにした.ピサはフィレンツェSMN駅からローカル列車で1時間である.ヴィンチ村はほぼ中間にある エンポリ駅からバスで30分の距離である.朝の7時57分の列車に乗ればピサの斜塔に近いピサ・サン・ロッソーレ駅まで行く列車に連絡しているのでそれに 間に合うように7時40分にはホテルを出た.ホテルからSMN駅まで10分はかからない.ピサまでの2等の切符を買い,プラットフォームをウロウロしてい る間に8時を過ぎてしまった.7時57分の列車に乗り遅れた.イタリアの列車は意外にも時間通りに運行している.次の列車は8時05分である.この列車だ とピサ中央駅までである.サンロッソーレ駅からだと5分程度でピサの斜塔まで行けるが,ピサ中央駅からだとほぼ2キロを歩かなければならない.しかし,ピ サの町中を歩いて楽しむのも良いかも知れない.

前回は時間がなくてピサには行けなかった.時間が十分ある今回は,レオナルド・ダヴィンチの生家にも行けるのだ.ローカル列車なので座席の指定 はない.比較的すいており,はずむ気持ちで4人掛けの前向きの2席に陣取った.まもなく車掌が検札に来た.余裕の気持ちで切符を車掌に渡して,検印された 切符を返して貰うのを待った.車掌が何か言いはじめた.よく聞いてみると,この切符には時間の刻印がないので,もう一度使おうと思えば使える.これは違法 行為であり,40ユーロの罰金を貰うことになっている,という.イタリアでは切符を買っただけでは乗客は,その義務をはたしたことにならず,列車に乗る前 に切符に時間の刻印をしなければないという.「おい,おい,おーい.とんでもない.私は時間の刻印をしなければないということなど知らないし,また,この 切符を2回使おうとも思っていない.第一,このイタリア滞在中にフィレンツェーピサを2回も往復する時間などない.」などと思ってはみたが,ここはイタリ アである.「郷に入れば郷に従え」という日本のことわざもある.われわれは日本を旅しているのではなくイタリアを旅しているのだ.イタリアのルールに従う しかないと諦めて,40ユーロの罰金を支払うことにした.

ヨーロッパの鉄道には,地下鉄などは別であるが,一般に,日本の改札口のようなものはない.したがって,日本の改札口でやって貰う,これからこ の切符を使い始めるという印(パンチなど)を乗客はみずから行わなければならないわけだ.プラットフォームの根もとや駅構内のさまざまなところに黄色の ボックスがあり,それが時間刻印機である.イタリア以外のヨーロッパの国でどのような罰金制度になっているかは知らないが,似た制度になっているのであろ う.これから気をつけよう.ユーレイル・パスなども使用開始日をボールペンなどで書いておく必要がある(鉛筆ではダメ)と聞く.後ろの若い中国のカップル もわれわれ同様にこの罰金制度に引っ掛かっている.かなり粘ったようであるが,彼らも最終的には罰金を払ったようである.それでも40ユーロの罰金は痛 い.せっかくの弾んだ気持ちも沈みがちになる.気持ちを切り替えるのに20分はかかったように思う.
pic44a
写真3 ピサ中央駅

気持ちを切り替えてトスカーナの緑を窓越しに楽しんだ.しばらくするとピサ中央駅に到着する.ピサ中央駅(写真3)を降りて旅行案内書の地図 を頼りに斜塔のある広場まで,イタリア通りを北上した.イタリア通りはなかなか雰囲気のある通りである.もっとも,イタリアの古い町の通りで雰囲気のない 通りを探すのは大変なことであるような気がする.アルノ河に架かるメッツォ橋をわたるとピサの歴史の中心といえる領域である.橋をわたってそのまま北上す るとカヴァリエーリ広場に出る.広場の東側にメディチ家の紋章を正面に飾った建物があった.カヴァリエーリ宮という.この建物はメディチ家のコジモ1世が 海賊と戦う騎士団のために建設させたものという.建設を指揮したのはジョルジョ・ヴァザーリという.ヴァザーリはコジモ1世のお抱えとなり,フィレンツェ の「ヴァザーリの回廊」やウフィッツィ美術館を建てた建築家・画家である.広場を過ぎてしばらく行くと道の向こうの建物の上に写真で見慣れた斜塔が現れ た.
pic45a
写真4 ピサの斜塔

ピサの斜塔(写真4)のあるドゥオーモ広場は観光客で賑わっている.ドゥオーモというのは,街を代表する大聖堂であり,そのドゥオーモに付属 する鐘楼がピサの斜塔である.ピサのドゥオーモもそれなりに立派であるが,観光客の興味はもちろん斜塔のほうにある.付属物であったものが今ではすっかり 主役である.このようなことは世の中でしばしばある.「天才バカボン」の主役がバカボンからバカボンのパパになったりするようなものである.傾斜の角度は 5.5度であり,一時あった傾斜の進行はその後の処置で止まり,いまは倒壊の危険はないという.斜塔への入場は,40人の定員で30分の見学が許されてい る.9:50からの入場は売り切れているが10:20からの入場券が手に入った.入場料は15ユーロである.ドゥオーモの入場料?2を含めて2人分で34 ユーロを現金で支払った.40分程待てばピサの斜塔に登れる.ドゥオーモ広場を見回すとわれわれのような日本からのリタイア・夫婦ペアが結構いる.日本か らの若者もいる.この4月の新しいスタートの時期に観光旅行ができるこれらの若者はいったい何をしている人だろうと考えているうちに,入場の時間が近づい てきた.新婚旅行なのかも知れない.

螺旋状の階段が全部で294段ある.斜塔は南側に傾いているが,その傾きを感じながら螺旋階段を登った.すなわち,南側に回り込むと外に投げ出 されるように感じ,北側に来ると内側の壁に押しつけられるような格好で登っていった.階段のステップは大理石で出来ているが,ステップが大きくえぐり取ら れたようにくぼんでいる.南側の階段のステップは傾きに応じて外側がくぼんでおり,北側の階段のステップは内側がくぼんでいる.たくさんの人びとがこのス テップを登ったのであろう.

鐘楼の最上階に上がると,ピサの街が見える.フィレンツェと同じオレンジ色の屋根である.ドゥオーモ広場のすぐ北側には城壁の跡が残っている. その外側にまたオレンジ色の屋根が続き,さらにその向こうに山が見える.トスカーナの山々である.その山続きにヴィンチ村がある.一方,西の方の向こうに は何もない.こちらはアルノ河が地中海に河口を広げている方である.かってピサは,海洋都市国家のひとつとしてジェノヴァやヴェネツィアなどとその覇を 競っていたが,15世紀にはフィレンツェ大公国の支配下に組み込まれることになった.メディチ家の紋章がさまざまな建物にある訳だ.

鐘楼から降りて,ドゥオーモの内部に入った.ドゥオーモの天井飾りのなかにもメディチ家の紋章があった.奥の説教壇の近くに長い紐に吊されたブ ロンズのランプがある.紐の長さは20メートルを超えている.このランプの動きからガリレオは「振り子の等時性」を発見したという言い伝えがある.しか し,これも斜塔からの重さの異なる物体の落下実験から「落下の法則」を見いだしたという物語とともに作り話であろう.「振り子の等時性」とは,振り子の周 期は振れ幅には関係なく振り子の長さが同じであれば同じであるということである.また,ガリレオが発見した「落下の法則」とは,(1) 物体が落下する速さは質量には無関係で,(2) 落下の距離は落下時間の二乗に比例するということである.ガリレオはこれらの法則を発見するにあたって,時間と距離の測定に様々な工夫をこらした.

帰りはサンタ・マリア通りをアルノ河まで歩いた.サンタ・マリア通りも雰囲気のある通りである.通りにはガリレオ研究所や自然史博物館がある. アルノ河沿いにメッツォ橋までの途中に一本奥の通りに面して1343年に創立されたピサ大学がある.ピサの近郊で生まれたガリレオ・ガリレイ (1564-1642)は1581年にピサ大学に入学し,1589年から3年契約の数学講師としてここで教えた.ピサ大学の通用門の上にもメディチ家の紋 章があった.ピサ大学のキャンパスは広くない.

イタリア通りを南下してピサ中央駅まで来た.さていよいよヴィンチ村に行く番である.駅の窓口で,フィレンツェまでの切符でエンポリ駅に途中下 車できるか聞いてみた.可能であるが,有効な時間は6時間であるという.6時間は,エンポリ駅で降車して,ヴィンチ村に行きレオナルド・ダヴィンチ (1452-1519)の生家を訪ねて帰ってくるには十分な時間ではあると思ったが,何が起こるか分からないので,小刻みにピサ−エンポリの切符を買うこ とにした.運賃の比較をしておくとフィレンツェ−ピサの運賃が5.7ユーロ,ピサ−エンポリが3.6ユーロ,エンポリ−フィレンツェが3.5ユーロなの で,小刻みに切符を買うことでの割高は1.4ユーロだけである.これならあまり考え悩むこともなかった.

エンポリ−ヴィンチ間のバスは結構頻繁に運行している.われわれの乗ったバスには下校時の高校生がたくさん乗り込んできた.エンポリの駅から離 れるにしたがって家がまばらになっていく.そんなさみしい田舎道に300 ~ 400 mおきにバス停がある.それらのバス停で高校生達は一人,二人と降りて行く.次第にバスのなかは静かになっていく.信号はほとんどない.道路の交差してい るところはロータリーである.ロータリー内は反時計回り,ロータリーに入るときにはロータリー内を走っている車を邪魔しないように入らなければならない. 「反時計回り」と「ロータリー内車優先」のルールのみでロータリーは機能する.信号機も要らず,その点では省エネであるが,しかし,道を真っ直ぐに行きた いときにもロータリー内を180度回転しなければならないのは,面倒な気もする.終点のヴィンチ村バス停で降りたのはわれわれ二人のみであった.

バス停からすぐのところにレオナルド・ダヴィンチ博物館がある.この建物は13世紀に建てられた城という.その前にインフォメーションセンター があった.レオナルドの生家への道筋を聞くために,インフォメーションセンターに立ち寄った.知的で感じのよい案内嬢が3人のグループに説明している.こ のグループは仲間内ではロシア語で話している.ロシアからの観光客なのであろう.説明が終わり,最後に案内嬢のどこから来たのかの問いにロシアからと答え ていた.われわれの番になり,レオナルドの生家へ行きたいのだがと尋ねると,近郊の地図を出してきて生家はアンキアーノというところにあり,ここから30 分程度の歩きで行けるという.ルートがハッキリとは分からなかったが,バスの進行方向に行けばよい程度のことは分かったので,地図をいただいてお礼を述べ た.案内嬢はわれわれにもどこから来たかと尋ねた.観光客の国別データを取っているのであろう.

ヴィンチ村バス停からバスの進行方向に歩き始めた.400~500m行ったところでVINTIという黒字に赤い帯が斜めに懸かった標示板に出く わした.一瞬,疑問符が頭に浮かんだが,この標示板の意味するところは,ヴィンチ村はここまでというサインであると即断した.アンキアーノはヴィンチ村の 中心より高いところにある.戻りながら高みへ上る道を探して,その道を登ってみた.しばらく行くと山道になり,strada verdeという標示板に出会った(写真5).意味は解らないが,何となくいいような気がしてきた(後で調べて分かったとことであるが,strada verdeとは「緑の道」という意味だ).
pic46a
写真5 レオナルドの生家へ導く「緑の道」

その後すぐにCASA DI LEONARDOという木の標示も現れ,オリーブ畑に囲まれた山道を安心してのんびりと歩いた.オリーブ畑の中には,赤いヒナゲシや黄色いタンポポ,白い 花などが咲いている.レオナルドは14歳でフィレンツェのヴェロッキオ工房へ弟子入りするまでの間,この道を歩きこのあたりの野や山で遊んでいたであろう ことを想像すると考え深い.レオナルドはこの豊かな自然の中で動植物の観察に夢中になったのであろう.しばらく山道を歩くと広い道路に出た.そこにバス停 の標識がある.バス停から200m行ったところに,Casa natale di Leonardoという看板があった.「レオナルドの生家」という意味である.看板の横の道を斜めに入って行くと石造りの小さな家が現れた(写真6). レオナルドは1452年にこの家で生まれた.父親は当時フィレンツェで公証人として活躍していたセル・ピエロ・ダヴィンチである.母親はカテリーナという 美しい娘であった.祖父アントニオは,セル・ピエロの公証人登録の最後のページに初孫の誕生の様子を詳細に書き留めている.「4月15日,土曜日「夜の3 時間」までに,わが孫,すなわちわが息子セル・ピエロの子が生まれた.その子はリオナルドLionardoと名づけられ,ピエロ・ディ・バルトロメオ・ダ ヴィンチ神父から洗礼を受けた」とある(LeonardoでなくLionardoとある).「夜の3時間」(ore 3 di notte)とは,22時30分のことであるという.二人には正式な婚姻関係はなく,セル・ピエロの私生児として誕生した.祖父はどこで生まれたかを記し ていないが,19世紀の歴史家エマニュエル・レペッティがこのアンキアーノの家であることを確認している.
pic47a
写真6 レオナルドの生家

母親カテリーナはダヴィンチ家に出入りしていた使用人であった(アラブ系の女奴隷であったという説もある)といわれているが,その素性はあまり 知られていない.カテリーナは,レオナルドを生んで間もない1453年に近くの農夫(石灰製造職人という説もある)アントニオ・ディ・ピエロに嫁がされ, 夫とともに近くのサン・パンタレオに移り,5人の子供を出産した.一方,セル・ピエロもフィレンツェの富豪の娘アルビエーラと結婚した.フィレンツェで公 証人として仕事をしていた父親セル・ピエロは,ヴィンチ村に滞在する時間は多くはなかったであろう.ヴィンチ村からフィレンツェへ行くにはエンポリへ出て アルノ河沿いに行くか山を越えて行くかであるが,前者で40km,後者で34kmもあり,馬を使っても1日の行程である.レオナルドは,主に祖父母や叔父 フランチェスコとアンキアーノの家やヴィンチ村の中心にある家で暮らした.カテリーナを他家に嫁がせヴィンチ村の近くにおいたのは,祖父アントニオのさい 配のように思う.近くにいた実母カテリーナは,レオナルドが幼いうちは乳母がわりに頻繁にこれらの家を訪れたと想像する.また,一人で歩けるようになった レオナルドは,サン・パンタレオの実母の家をたびたび訪れたものと思われる.

レオナルドは10代でフィレンツェのヴェロッキオ工房に弟子入りしたあとも,しばしば,さまざまな宗教行事にともなう祭日にヴィンチ村を訪れ たという.レオナルドの生家からモンタルバーノ丘陵を撮したものが写真7である.一面にオリーブ畑やブドウ畑が広がり,南に面した明るく豊かな土地であ る.この山を越えてほぼ東に進路を取ればフィレンツェにたどり着く.少年レオナルドは,この道を歩いて往復したのであろう.時間があれば,フィレンツェま での道の一部でも歩いて見るのは楽しいかも知れない.
pic48a
写真7 レオナルドの生家から眺めるモンタルバーノ丘陵

レオナルドの生家をさらに奥へ行ったところに駐車場があった.その奥にお土産店があった.このあたりで生産した農産物や工芸品を販売している. 直径10センチ程度の円盤型をしたチ−ズが目に留まり,いくらかと尋ねてみると,10ユーロという.レオナルドの生家を訪ねた記念としてこのあたりの生産 品であるそのチーズを買うことにした.福岡に帰って休みごとの昼食にポールのパンで,野菜と生ハムとともにサンドウィッチの中に入れて食したが,これが素 朴な味であったが美味しかった.6月の上旬までレオナルドの生家を思い出しながら,この素朴な味のチーズを楽しんだ.

inserted by FC2 system