旅日記,随想,俳句など…

パリ美術館めぐり1

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パリ美術館めぐり [2010.4.10-14]

2010.6.9

1.はじめに

この3月31日に永年勤めてきた大学を退職した.4月からは完全にフリーになったが,研究課題が急になくなるわけでもなく,また,その他の残務整理もあり何かと忙しく過ごしている.退職後,これまでの生活リズムは在職中とあまり変わらない.しかし,せっかく退職により自由な時間が手に入ったのだから在職中には出来なかったようなことをしてみたい.そのような気持ちから少し贅沢な15日間の観光旅行を計画した.4月10日から24日までパリ,フィレンツェ,ミラノの美術館をめぐる旅である.

4泊する予定のパリは初めての訪問となる.パリにはたくさんの美術館があるが,今回はルーブル,オルセー,オランジュリーの三つの美術館にしぼることにした.

フィレンツェでは6泊予定しているが,1年半前に訪れたときには2泊しかできなくて,いくつかの美術館を大急ぎで回った記憶がある.鑑賞できなかった美術品も多く残っている.今回は時間をかけてこれらを鑑賞したい.今回の旅行中にフィレンツェからボローニャの列車の中で一緒になった,ボローニャ生まれで結婚されてフィレンツェに住んでいる40前後の女性の話では,イタリアの美術遺産のうちの70%はフィレンツェに集中しているということである.実際,フィレンツェは大変魅力的な街である.それに加えてピサやビンチ村も近くにある.ピサは,ローカル列車で1時間の距離である.ビンチ村には,フィレンツェとピサの間にあるエンポリという駅からバスに乗れば30分で行ける.これらを訪問することもフィレンツェ滞在中の計画である.

ミラノには3泊を予定している.ミラノでの主な目的は,ただ一つに絞った.サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」である.「最後の晩餐」は,時間を区切って25人の定員で15分間だけの鑑賞が許される.予約もできるが当日行って空いていれば,どこかの時間帯に入ることができる.9年前にある学会からの帰りにサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会を朝訪れたときには,午後4時からであれば可能ということであったが,ミラノ・マルペンザ空港を当日の夕方に出発予定であったので残念ながらあきらめた.今回は,3泊もあるのだから大丈夫であろう.

2.出発

出発前日まではあたふたと日常生活を過ごし,旅行の準備もこれまでの退職前の慌ただしい出張のときとあまり変わらない.家内が同行する出張のときと同様に荷物のパッキングは任せきりで,私の着るものとして何が荷物の中にあるかを知らないまま出発することになる.

念のため5時に2個の目覚まし時計をセットしておいたが,もちろん,目覚ましのベルの鳴る前に起きた.e-チケットやホテルの予約確認のプリント,カメラ,その付属品などをいつものMilletのバッグパックに詰めて,家内が準備したバッグ二つを確かめてタクシーを待つ.前夜のうちにタクシーを5時40分に予約しておいた.以前に,タクシー会社に早朝の迎えを前夜に予約したとき,時間になってもなかなか来ないのでタクシー会社に電話したところ,迎え車はすでに行っているとのことであった.普通はタクシーが来れば,タクシーの運転手は玄関のチャイムを鳴らして,到着したことを知らせてくれる.チャイムが鳴らないのでまだ来ないと待っていたのであるが,玄関に行ってみれば確かにタクシーは来ていた.運転手になぜチャイムを鳴らさないのかと聞いた.運転手の説明では,早朝,ある家の出迎えに予約された時間に玄関のチャイムを鳴らしたところ,「他の家族が起きるのでチャイムを鳴らすな.何のために時間を指定したのか」としかられたことがあり,それ以来,早朝はチャイムを鳴らさないことを基本にしているということであった.今回は,到着したらチャイムで連絡をするようにお願いしている.チャイムを待って朝食抜きでタクシーに乗る.福岡空港には6時前に到着した.エグゼクティブ・クラスへのアップグレード待ちは昨日まで待ちのままであった.念のため,チェックインカウンターでアップグレード可能か問い合わせてみたが,本日は残念ながら満席ですということであった.荷物を預けて空港ビルの3階のレストランで朝食を取ることにした.私は和定食,家内は洋定食を注文した.

朝食後,ゲートを通り抜けると搭乗口では,7時10分発の成田行きは最後の人々が搭乗しているところであった.家内の搭乗券がトラブルを起こした.何度入れても改札機の反応がない.聞いてみるとショルダーバッグのホックが磁石になっており,その磁気に搭乗券の磁気記録がかき乱されたようだ. 
成田行き飛行機の搭乗割合は6割といったところである.成田での待合い時間は2時間.退屈することもなくパリ行きJL405便に乗り込んだ.ファ-ストクラス,エグゼクティブクラスの後ろにエグゼクティブエコノミークラスがあり,さらにその後ろにエコノミークラスがある.どのクラスも満席である.アップグレード出来なかったことに納得できた.

成田11時5分発の予定の日航JL405便は小一時間遅れて離陸したが,ほぼ予定時刻にパリに16時頃に到着するとのことである.今日は西からのジェット気流が普段に比べて弱いのであろう.昨年の6月に成田からヘルシンキに行ったときにも,その時は定刻に離陸したが予定時間の1時間も前に到着したことがあった.ジェット気流の強弱で一時間程度の飛行時間の差ができるのは不思議ではない. 

飛行機は成田から北上しておりすでにロシアの上空を飛んでいる.おおむね雲がかかっているが,時々,雲間からシベリアの大地が見える.一面の雪景色である.飛行ルートマップを参考にすると,この雪景色のシベリア大地はカムチャッカの北端とほぼ同緯度である.北緯60度である.ここでは4月上旬の雪景色は当然だ.時刻は午後2時30分である.平板な地図帳を見慣れている私にとって,この飛行経路は遠回りであるように感じた.あとで地球儀の上で測地線を引いてみて,今回の飛行ルートが成田からパリまでの測地線に沿っていることを確かめることができた. 

ロシアの最北部,ツンドラ地帯を西に飛行を続けている.一面に雪で覆われているが,その下にある凹凸がうかがえて面白い.険しい山肌やまた大きく蛇行する川の跡が見える.北極海に浮かぶフラットな氷の塊も見える.流氷というには,その一つの塊が大きすぎる(写真1). 
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写真1 北極海の氷塊

右手前方にノバヤゼムリヤ島がみえる.この島は旧ソ連時代には約200回の核実験を行ったところである.ウラル山脈の北の端が伸び半島となり,さらにその高まりがノバヤゼムリヤ島に至っている.その高まりがS字のカーブを描いている.こうみるとノバヤゼムリヤ島は,ウラル山脈が作られた地殻変動と時を同じくして作られたものであると想像できる.

フィンランドを過ぎてスウェーデンの南部辺りに来たところで雪は無くなった.飛行機はデンマークの上空に来た.バルト海から北海にぬける海峡は,青く静かだ.そこに浮かぶデンマークの島や半島は水に浮かべた紙のように見える.上から見ているとデンマークは本当にフラットで山のない国であることがよく分かる(写真2).デンマーク(ユトランド半島)で一番高いところはヒンメルビャー(Himmelbjerg)という丘であるという.実際には,ここより高い(170m程の)ポイントが二,三あるのだが,デンマークでは海抜147mしかないこの丘は「天の山」と呼ばれユトランド半島で一番高い山の象徴のようになっている.ヒンメルビャー丘に比較してほかの高いポイントは,だだっ広いだけで山らしくないということであろう.そのヒンメルビャーに登った日本人の話では,ヒンメルビャーについても「山というより大きな丘という感じでした」ということである.
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写真2 平らなユトランド半島

3.パリへ

パリのシャルル・ドゴール空港には,結局,パリ時間で午後4時20分に到着した.飛行時間は11時間あまりである.入国審査を経て荷物を受け取って外に出たのが5時であった.それにしても,フランスの入国審査はいい加減だ.まず,はじめに,closed(仏:ferm?)と表示のあるところに審査官がいて入国審査をしている.そのとなりも入国審査をしているが,そこでは表示そのものが消えている.われわれもその列に並んで審査を待った.順番が来てパスポートを渡すと,審査官はやる気のなさそうな素振りでパスポートをパラパラとめくっただけで返してきた.簡単でよいという見方もできるが.よその国ながらもう少しきちんと入国審査をした方がよいのではないですか,という老婆心が起きてしまう.入国年月日の入ったスタンプも押してくれない.もっとも,ぱらぱらと見ている間にパスポートの写真を見て,本人を確認したのかも知れない.もしそうなら,それで十分なのかも知れない.しかし,入国スタンプを押してくれなかったのには不満が残った.

シャルル・ドゴール空港からは,エール・フランスバスでパリ市内まで行くことにした.バスは30分に1本の割合で出ている.他の交通機関より割高な15ユーロであるが,このバスの終点が有名な凱旋門であり,われわれが宿泊するホテルがその凱旋門から200mのところにあるので便利だ.パリには凱旋門が五つもあり,したがって「凱旋門」(arc de triomphe)というよりは「エトワール」と言ったほうが運転手には通じやすい.シャンゼリゼ通りにつづく有名な凱旋門のまわりの広場をエトワール広場という.1970年にシャルル・ドゴール広場と改称されたが,エトワール広場という言い方も依然として使われている.地下鉄の駅名も,シャルル・ドゴール=エトワールである.エトワールという名称は,この広場から12本の大通りが放射状にのびていることに由来する.エトワール(etoile)の意味は星である.数学的には6本の直線が広場の中心で交わっているということにすぎない.隣の直線(道路)との角度は30度である.

ホテルには6時過ぎに到着した.フロントで予約をしている旨を伝えて,こちらの名前を言おうとすると,向こうからMiyoshi?と先に私の名前を言われた.本日,チェックインする東洋人はわれわれしかいないのであろう.エレベータは無いという.部屋番号は222であり2階と言われたので,重い荷物をかついで狭い階段を1階分上がったところで部屋番号を探したがそこには見あたらない.今度はそこに荷物を置いて狭い階段をもう1階分上がってみた.あがってすぐのところが222であった.考えてみれば,ヨーロッパでは,イギリスと同じ階の呼び方が普通で,一階がグラウンド階,二階が一階,三階が二階である.

重い二つの荷物を部屋まで2階分持ち上げて,部屋でひと休みした.7時半ころから外に出て,エトワール広場の凱旋門からウィンドー・ショッピングしながらシャンゼリゼ通りをコンコルド広場まで行き,さらにルーブル美術館まで散歩した.外はまだ明るい.シャンゼリゼ通りは車道も広くて片側4車線である.歩道もたいへん広い.片側の歩道の広さは6車線が取れるほどの広さがあり,そこにプラタナスの並木がある.プラタナスはまだ冬木のままである.土曜の夜ということもあり,たくさんの人出である.歩道にはカフェがあり多くの客で賑わっている.人をかき分けながら凱旋門から1km程行くと並木は3列になり,そのうち2列はマロニエに変わる(写真3).マロニエはすでに新緑である.花はまだであるが,よく見ると黄土色のつぼみが頭をもたげていた.10日後に訪れたミラノではマロニエの白い花が,(江戸時代の)火消しのまといの様な形で頭をもたげて咲いていた.ミラノのほうがパリよりいくらか南なので花期が早いのかもしれない.この辺りの左奥に大統領官邸のエリゼ宮がある.
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写真3 シャンゼリゼ通りの並木

まもなくコンコルド広場に到着した.広場の中心には,エジプトから贈られたというオベリスクがそびえている(写真4).コンコルド広場からは,振り返ると西にエトワールの凱旋門,東にカルーゼル凱旋門,北にギリシャ神殿を思わせるマドレーヌ教会,南にブルボン宮を見渡すことができる.ブルボン宮は,現在,フランス下院の国会議事堂として使用されているという.高いビルがないためか,パリの中心は広々としている.
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写真4 コンコルド広場のオベリスク

コンコルド広場を過ぎてチュイルリー公園に入る.公園に入ったすぐ右手にオランジュリー美術館がある.明日は一番にここを訪れる予定にしている.この公園にも多くの人が大きな噴水池のまわりのベンチや芝生に座ってくつろいでいる.8時30分を過ぎているが,まだ西日が入り残っている.しばらく歩くとカルーゼル凱旋門をぬけてルーブル美術館に到着する(写真5).今日は様子見である.ホテルからルーブル美術館までの距離感もつかめた.チーズと赤ワインを買って,帰りは地下鉄を利用することにした.
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写真5 ルーブル美術館とガラスのピラミッド

パリの地下鉄は乗り換え自由でどこまでも行っても1.6ユーロである.切符の自動販売機の前でまごまごしていたら,おばさんが来て切符2枚を?3.2で売ってくれた.私がコインのすべてを手のひらに広げて3.2ユーロを出そうとしていたら,おばさんはさらに2枚を3ユーロで売ってやると言ってくれた.結局,4枚を6.2ユーロで買ったことになる.他の地下鉄駅でも切符の売り子にお世話になった.ルーブル美術館駅からシャルル・ドゴール=エトワール駅に行けばよい.電車に乗ったがまったく別の線に乗ってしまったようだ.最初の駅で降りてルーブル美術館駅に引き返し,今度は慎重に乗るべきホームを探した.パリの地下鉄では,自分の行く路線の終着駅を認識しておくことが大切である.われわれの乗るべき地下鉄の終着駅がLa Defenseであることを確認してそのホームを探した.電車に乗って最初の駅がチュイルリー駅であることをみて安心した.チュイルリー駅から四つ目の駅がシャルル・ドゴール=エトワール駅である.ホテルに帰ってきたのは9時過ぎであったが,西の空は幾分明るかった.ホテルのフロントで部屋のキーを貰うとき,英仏語の混成で部屋番号をトリプル・ドゥと言ったら通じなかったので,ドゥ・ドゥ・ドゥと言ったら通じた.翌朝の朝食をお願いした.朝食は7時30分からという.

4.オランジュリー美術館

今日(4月11日)の予定は,オランジュリー美術館とルーブル美術館である.オランジュリー美術館にはモネの8枚の大作「睡蓮」が,楕円形をした2部屋に展示されているという.ルーブル美術館は,もちろん世界最大の美術館のひとつである.ルーブル美術館には明日(月曜日)もまる一日時間を取っている.ルーブル美術館の休館日は火曜日である.オランジュリー美術館の休館日も火曜日であるが,オルセー美術館の休館日は月曜日である.美術館ごとに休館日が異なるのが面白い.しかし,これはきっと来館者の便を考慮した措置であるのだろう.

7時40分に朝食を取りにロビーまで降りていったところ,狭いロビーに数人の日本人の集団が,ランニング姿で張り切っている.聞いてみたところ,今日の8時45分からエトワールの凱旋門を出発しシャンゼリゼ通りを走り,さらにセーヌ川沿いの道を駆け抜けてフルマラソンを走るのだという.頑張ってくださいと激励の挨拶をして朝食に向かった.朝食の部屋はロビーから一階分降りた中庭と同じレベルにあった.そうしてみると,昨日,表通りからそのまま入ってきたロビーはここから数えると2階ということになる.また,われわれの宿泊している部屋は4階ということになる.朝食は完全にコンチネンタルスタイルのものでコーヒーとミルクにパン(クロワッサンとフランスパン,それにジャムとバター)のみであった.しかし,クロワッサンもフランスパンもどちらも美味しかった.家内の話では,隣のテーブルに座って食事していたフランス人は,ミルクの入ったコーヒーにフランスパンを浸しながら食べていた.そのような食べ方をしているようでは,フランスパンの本当の美味しさを知らないのではないかというのが,われわれ二人の一致した意見となった.本当に美味しいフランスパンは,それだけを?みしめているとその美味しさが味わえる.その点は,白米もおなじである.はじめは,とても食べきれないと思ったほどのパンの量であったが,おいしくほとんどを食べてしまった.

マラソンのスタートを見ようと8時30分にホテルを出発した.ホテルの近くでは軽くウォームアップのジョギングをしている人がちらほらいる.エトワールの凱旋門まで行くとなんとすでに道路いっぱいになって走っている.もうすでにスタートしていたのだ(後で分かったことであるが,これらの道路いっぱいになって走っていた人々は,スタート地点へ向かっていたのだ.スタート時刻は,実際8時45分で,自己申告の予想タイムの短い人から順にスタートしたとのことである).MARATHON DE PARISと印字されたビニールのポンチョのようなものをかぶって走っている人が多い.身体を冷やさないための工夫であるようだ.その他にきぐるみを着たり,帽子に小さな旗をかかげたり思い思いの姿で走っている.ホテルで出会った人たちは間に合ったのか少し心配になる.時間は8時35分である.しばらくマラソン人の流れを見送って,地下鉄でオランジュリー美術館に最寄りのコンコルド広場駅に向かうことにした.
コンコルド広場の地下鉄駅から地上に出て,シャンゼリゼ通りの方を見て驚いた.8車線ある大通りから何千何万のマラソン人が,道いっぱいに大河を流れる雨後の水のように次から次に流れて来る(写真6).後から知った情報では4万人が走ったという.圧倒されるようなその流れを,美術館訪問のことも忘れて,いくぶん気持ちを高ぶらせてしばらく見入っていた.気持ちを高揚させてくれる一因に音楽があった.十名ほどの集団が笛や太鼓を使いリズムの良い音楽を演奏している.マラソンを見物している人々もそのリズムに乗って身体を動かしている.この音楽集団は,任意の私設のものであるのか,それともパリ市がマラソン大会のために用意したものであるのだろうか.おそらく後者であるのだと思う.別の音楽隊を2,3見つけた.日本の市民マラソン大会ではこのような音楽集団の応援を受けた大会は見たことがない.あらゆる手段を使って参加者も見物人も,大いに楽しもうということなのだろう.日本の大会やさまざまな催し物にも参考になる考え方であるように思われた.
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写真6 パリマラソンの一般参加の人々

しばらくマラソンを見物して,オランジュリー美術館に向かった.オランジュリー美術館の開館時間は9時である.美術館の切符売り場で,4日間のミュージアム・パス(48ユーロ)を購入した.この券で4日間は主だった美術館を無料で入場できる.また,エトワールの凱旋門やノートルダム寺院の塔なども無料で登ることが出来るし,ベルサイユ宮殿もただで入場できる.ミュージアム・パスの有り難さはそれだけでなく,チケット購入の長い列に並ぶことなく別のすいた入り口からゆうゆうと入場できることである.ヨーロッパの人は,一般に列に並んで時間をつぶすことに無頓着のように思われる.それを後でイタリアのフィレンツェでいやというほど味わった.パリでも,美術館の当日券を買うための長い列をルーブル美術館やオルセー美術館,ベルサイユ宮殿などでしばしば見た.この長い列をスキップできるだけで有り難い.

オランジュリーという名前は,ここに17世紀ころオレンジなどの柑橘類のための温室があったことから名前がついたということである.開館したばかりということもあり,ほとんど入館者がいない.ゆっくりと館内の美術品を鑑賞することができる.ここでルノワール,セザンヌ,シスレー,モジリアーニなどの絵に出会うことができた.また,初期のピカソの力強い女性裸像も印象的であった.ユトリロやマティスもあったが,あまり印象に残るようなものではなかった.この美術館ではフラッシュを使わなければ,写真を撮るのは自由である.最近購入したオリンパスの一眼レフをMilletのバッグパックから取り出しスイッチを入れたところ,バッテリー切れの赤い表示が点灯している.仕方なくキャノンのコンパクトカメラで気に入った絵画を取ることにする.心を動かれた絵画を何点か写真に収めた(写真7).
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写真7 ルノワール「人形遊びの少女」

この美術館の圧巻は,やはりモネの「睡蓮の間」である.楕円形の2つ部屋に「睡蓮」の大作が4枚ずつ掲げられている.中央には椅子が置かれてあり,その椅子に座って絵をぼんやり眺めていると本当に睡蓮の沼にいるような軽い錯覚を覚える(写真8).「睡蓮の間」の構想は,モネ自身のもので,モネは,1926年に86歳でこの世を去るまでこれらの作品の仕上げに力を尽くしたと館内のビデオルームの映画が解説していた.自ら「睡蓮装飾画」と名付けた壁画作成を思いついたのは1914年のことという.その後,モネは白内障になりながら,何回かの手術により回復した視力で大作に取り組んだ.その大作の展示のためにオランジュリー美術館は,内部を改造して待っていたという.大作「睡蓮」が楕円形をした二つの部屋に一般公開されたのは1927年5月17日のことという.モネの死後,ほぼ半年後のことであった.現在の美術館では,6年間にわたる改造により完成した「睡蓮の間」(2006年完成)は天井からの自然光の取り入れができる.そのおかげで,より自然な状態の中でこれらの作品を鑑賞(体験)することができるようになっている.絵に近づいたり部屋の中央のイスに腰掛けたりして,「睡蓮装飾画」を心ゆくまで鑑賞してから美術館を出た.
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写真8 モネの「睡蓮の間」

オランジュリー美術館を出てきたのは,10時を10分ほど過ぎたときである.外ではセーヌ川沿いの道路で先ほどの音楽団がリズムよく音楽を演奏している.その道路には選手の姿はないが,応援の人垣ができている.間もなくトップと思われる選手が東から現れた.拍手と声援,音楽に力が入る.しばらくして,後続が次々に現れる.また,別のラッパを中心の音楽団が景気をつけている.しかし,リズムをきざむ太鼓がないのが心持ちさみしい.セーヌ川を遊覧船が下って行く.女性のトップ,車イスのトップが現れ,さらに胸のゼッケン番号が4桁の選手が現れはじめた頃になって,ルーブル美術館へ向かうことにした.

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