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パリ美術館めぐり3

パリ美術館めぐり3


6.オルセー美術館

ルーブル美術館の館内で軽く昼食を取って外に出ると午後2時を過ぎていた.昼食前にはかなり疲れていたが,食事を取ったことで少し元気が出てきた.セーヌ川を渡ったすぐのところにオルセー美術館(写真25)があり,その閉館までにまだ4時間ほどある.一つの美術館を鑑賞するに十分な時間なのでオルセー美術館にも入館することにした.
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写真25 セーヌ川の対岸から望むオルセー美術館

オルセー美術館は,もとは駅の建物であったものをほぼそのままの形で利用した美術館である.基本的には,1848年から1914年までの作品が収集されている.1848年はルーブル美術館との境界であり,1914年は国立近代美術館との境界になっている.このように3つの時代区分の美術品を,ルーブル美術館,オルセー美術館,国立近代美術館で大別・分担して展示している.オルセー美術館では印象派を中心としてバルビゾン派やクールベ,またアングルやドラクロワの絵が展示されている.印象派ではマネ,モネ,ルノワール,ドガ,シスレー,ピサロ,ゴーギャン,ゴッホなど有名な絵が豪華に並んでいるという.

セーヌ川を渡り,セーヌ川沿いの道路を西に歩いてオルセー美術館へ向かった.セーヌ川沿いの歩道には古本や骨董などの露天が並んでいる.それらを見ながら進んだ.オルセー美術館の西側の入り口広場に行って驚いた.長い列が出来ており,この列が少しも動かない.列には2,3百名はいるようだ.入場券を購入するための列のようである.よく見るとミュージアムパスのようなものを手に持った人が,南の方の入り口に向かっている.われわれもその人について行くとそこには数名が並んでいるだけである.荷物検査を受け,2,3分で中に入ることができた.ミュージアムパスの威力は絶大である.

オルセー美術館の展示物ははじめて見るもの多く,作品群の実力は素晴らしい.特に,ドガの作品群は豊富である.踊り子などの動きのある絵だけでなく,家族の肖像や風景画まで展示されている.しかし,ここでは写真撮影は禁止されていて,はじめて見た印象を自分で取った写真で再確認することができず,印象が薄れていくばかりである.絵そのものでなく絵の説明書きを携帯電話のカメラで収めようとしていた人が,係員に厳しく注意されていた.また,絵の配列の仕方にも統一性が感じられない.特に,ドガの絵は数えたわけではないが40枚前後はあった絵が,ある作品群はひとかたまりに,また,別の作品群は別の部屋に,それから,個人から寄贈されたものはまた別の部屋にという形で展示されており,はじめての訪問者には分かり難い配置になっていた.作家別に展示するなら制作年順に並べるとか,絵画のさまざまな主張の流れの中で個々の作品を大きく位置づけて配置するとか,もう少し工夫の仕方があり得ると思った.オルセー美術館の名誉のために,次のことを行っておくほうが公平であろう.われわれの当日の鑑賞経路が,美術館の意図した経路とは違っていたということである.そのことを,いまこの文章を書いているときにオルセー美術館の案内リーフレットを見て気付いた.しかし,訪問した一ヶ月後に,鑑賞経路が違っていたということを訪問者が気付く.その責任が訪問者のみにあるというのは,少し酷であろう.

この美術館で印象に残ったものを3点あげるとすれば,アングルの「泉」,ドガの「家族の肖像」,ゴッホの「自画像」である.昔から教科書などで見ていたアングルの「泉」はやはり美しい(写真26).
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写真26 アングル「泉」(http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/Source.htmlより)

帰国後,そのことを友人に話したら,彼はお腹が出ているという.そういわれてよく見ると確かにお腹が出ているようだ.アングルは,ミロのヴィーナスをイメージしてこの絵を描いたというようなことをどこかで読んだことがある.ミロのヴィーナスのお腹はこれほど出ていないように思う.具体的にモデルがいたのであろうか.少し出たお腹を意識しながら鑑賞し直すと,美しさも半減するような気もする.してみると,はじめに「やはり美しい」と思ったのはどこを観ての評価だったのか.家内に聞いてみたら,お腹の出っ張りはあまり気にならなかったという.この程度は普通なのかも知れない.人によって見るところが異なるのが面白い.この程度のお腹の出っ張りは美の範疇に入るのだということで,納得するのが穏やかであろう.美術書によれば,この「泉」の作成年は1856年であるが,この絵の構想は1820年からという.完成したときのアングルの年齢は76歳前後である.

ドガの「家族の肖像」ははじめて見た絵であるが,ドガの達者ぶりを醸し出している.ドガがフィレンツェの叔父の家に滞在していたときに書いたものという.ゴッホの「自画像」(写真27)は,差し迫る狂気の縁に留まっている鬼気迫る迫力がある.じっと見ているとこちらが狂いそうな危うい気持ちになる不思議な絵である.この絵の前で,この「自画像」の目線と同じように鋭い目つきでこの絵を凝視している青年がいた.
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写真27 ゴッホ「自画像」(http://ja.wikipedia.org/wiki/自画像_(ゴッホ)より)

オルセー美術館をひと通り見終わって出てきたら五時を過ぎていた.セーヌ川を渡り,チュイルリー公園をぬけ,サン・トノレ通りを散歩しているとうなぎ屋やラーメン店などを何軒か見つけた.そのうちの一軒が「サッポロ・ラーメン」とカタカナの看板が掲げてあり,日本食が恋しいというわけでもなかったが,何か嬉しくなってついつい入ってしまった.ラーメン,餃子,ビールを注文して,本日の夕食とした.

 

7.ルーブル美術館(第二日)

今日(4月12日)は朝からルーブル美術館を訪れ,昨日,見残した部分を鑑賞する予定にしている.見残した部分は全体の4分の3ほどあるが,とうてい今日一日でそれら全部を見ることはできない.今日は,主に昨日の復習とフランス絵画,オランダ・フランドル絵画である.余力があればハムラビ法典などのメソポタミア美術の会場にも廻りたい.

昨日とまったく同じ朝食を頂き,8時過ぎにホテルを出た.シャルル・ドゴール=エトワール駅で地下鉄に乗れば15分でルーブル美術館に着く.地下の自動販売機で切符を買うのに手間取るが,すぐ前の人が紡錘形のハンドルを回しながら買っていたのがお手本となり何とか2枚の切符を買うことができた.9時の開館時間までには十分な時間がある.開館時間はルーブル美術館とオランジュリー美術館は9時で,オルセー美術館は9時30分である.面白いことにフィレンツェの美術館はほとんどが8時15分開館であった.イタリアはいい加減という思い込みが私にはあった.だから私には,フィレンツェの美術館が朝早くから開館するというのが意外であった.これは観光客に対して当地の美術品を朝早くから十分な時間をかけて鑑賞して貰いたいという,フィレンツェの人々のもてなしの心の表れであると解釈したい.ちなみに,ミラノの美術館には,開館時間が10時というのもあった.ただし,「最後の晩餐」のサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会の開館時間は,やはり8時15分である.

8時40分にはルーブル美術館のガラスのピラミッドに到着したが,すでに長い列が出来ている.手荷物検査を受けてナポレオン・ホールに降りて今日はドノン翼への入り口から入った.すぐ一階へ上がり古代ギリシャ美術の中の「ミロのヴィーナス」のコーナーに急ぐ.朝早いせいで人が少なく,「ミロのヴィーナス」をゆっくり鑑賞できる.しばらくヴィーナスと一緒にいて,二階へ回ることにした.「サモトラケのニケ」の踊り場,イタリア絵画の回廊風展示室をスルーして「モナリザ」の間に入る.やはり人がほとんどいない.望遠ズームレンズを付けた一眼レフで「モナリザ」を静かに撮ることができた.写真20はこのときに撮ったものである.

ダヴィンチのコーナーやラファエロ,カラバッジョなどの昨日の復習をして,リシリュー翼の3階に向かった.フランス絵画,オランダ・フランドル絵画はリシリュー翼とシュリー翼の3階にある.16世紀のフォンテーヌブロー派の画家による有名な「浴槽のガブリエル・デストレ姉妹」の模写をしている人がいた(写真28).この絵の作者は特定されていないようだ.
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写真28 「浴槽のガブリエル・デストレ姉妹」の模写

ジョルジュ・ド・ラトゥール(1593-1652)は,17世紀のフランス古典主義を代表する画家である.生前に名声を得ていたラトゥールは,没後,急速に忘れられ,その間に彼の作品は四散したという.ラトゥールの再評価がなされるようになったのは最近のことである.ラトゥールは,夜の情景の画家といわれ,ロウソクの火のもとで悔悛するマグダラのマリアについての絵を何枚も描いている.ルーブル美術館にも一枚あったが,光線の関係で上手く写真に収めることができなかった.その他のルーブル美術館にあった代表作を写真29,30に示す.写真29は「大工の聖ヨセフ」で,これも夜の情景である.聖ヨセフは,もちろん,イエス・キリストの養父で聖マリアの夫である.ヨセフはマリアの懐妊を知って,婚約を解消しようとしたが,天使が現れマリアは処女懐妊であることを告げられ婚約解消を思いとどまったと聖書にある.火をかざしている少年はイエスであろう.老人と若者,経験と無垢の対照を描いたカラヴァッジョオ派の影響と考えられている.少年の手がロウソクの炎に透けて見えている.宗教的な材料を日常生活の何気ないスナップ・ショットとして描いているところにラトゥールの真価があるように思う.ヨセフの慈愛に満ちた眼差しと幼子イエスの無垢の表情がよい.昨年5月に学会で東京に行ったとき,上野の西洋美術館における「ルーブル美術館展」でもこの絵に出会い印象深かったが,このような絵の意味を知らないまま鑑賞していた.絵の鑑賞には何の予備知識もいらない.しかし,予備知識が絵のより強い印象をもたらすこともあるように思う.
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写真29 ラトゥール「大工の聖ヨセフ」(1640年頃)

写真29は「いかさま師」である.これも面白いスナップ・ショットである.左のいかさま師が背中からダイヤのエースを取り出そうとしており,後ろからの光線をうけ顔は陰になっている.一方,右にいるうぶな若者の顔は光に照らされて,無心に自分の手カードを考えている.中央の女性二人の目配せも面白い.この絵は,光線の具合からいえば昼の情景になる.ラトゥールが夜の情景のみの画家ではないことを示す代表的な作品になっている.ほぼ同様の絵画が米国・フォートワース(テキサス州)のキンベル美術館にある.その絵では,いかさま師はダイヤではなくスペードのエースを取り出そうとしている.キンベル美術館のものを「スペードのエースをもったいかさま師」と呼び,ルーブル美術館のものを「ダイヤのエースをもったいかさま師」という名前で区別している.ラトゥールにも,カラヴァッジオと同じ「女占い師」という有名な絵がある.金貨で青年の未来を占っているジプシーの占い師の仲間が,青年の財布や装飾品を盗もうとしているスナップ・ショットであり,これは題名からも明らかにカラヴァッジオの影響であろう.「いかさま師」も明らかにこの系列の絵画である.世俗的な話題でもあるが,宗教的な意味合いもあるという.しかし,その宗教的な意味については,私は理解できていない.聖書の中の「放蕩息子」に関係しているというような解説をどこかで読んだ.そうすると,うぶな無知な若者に対する戒めがこの絵の主題なのであろうか.しかし,聖書の中の「放蕩息子」の話は,さんざん放蕩して落ちぶれて帰ってきた息子を,父親が暖かく迎えるというような物語であったような気がする.
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写真30 ラトゥール「いかさま師」(1635-1638)

アングル(1780-1867)は新古典主義の最後の巨匠として,ほぼ二回り若いドラクロワ(1798-1863)と同時代を生きた.ドラクロワはゴヤ,ジェリコーとともにロマン主義の巨匠である.二人はことごとく対立し,政治色をおびるようなこともあったようだ.しかし,アングルはその作風から政治的に保守派と思われているが,実際には共和制を熱烈に支持していた.作風と政治的信条は異なっていた.芸術上の対立点は,アングルの「線」に対してドラクロワの「色彩」といわれている.アングルは師事したダヴィッド(1748-1825)の輪郭線を大切にして静的な美を追究したのに対して,ドラクロワは輪郭線よりは色彩を大切にして動的で劇的な表現を大切にした.アングルのドラクロワに対する評価は「あの若造は絵に大切なのが何かが分かっちゃいない」であり,ドラクロワは「冷たい正確さは芸術ではない」と新古典主義とその代表であるアングルを批判している.これらの表現は,ロマン主義と新古典主義を,それぞれ,批判したものであろう.アングルの代表作は,オルセー美術館の「泉」や「グランド・オダリスク」(写真31)であり,ドラクロワの代表作は「民衆を導く自由の女神」や「アルジェの女達」(写真32)である.「グランド・オダリスク」はダヴィッドの「皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」(写真33)とともに「ダリュの間」に,「アルジェの女達」は「民衆を導く自由の女神」やジェリコーの「メデュース号の筏」とともに「モリアンの間」に展示されている.これらの間は互いに隣り合った部屋になっており,それぞれ,新古典主義とロマン主義の大作がおさめられており今でも対抗しているような構図になっているのが面白い.
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写真31 アングル「グランド・オダリスク」(1814)
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写真32 ドラクロワ「アルジェの女達」(1834)
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写真33 ダヴィッド「皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」

コロー(1796-1875)は好きな画家である.ただし,肖像画に関しては,「真珠の女」を含めてあまり感心しない.この「真珠の女」はコローの「モナリザ」ともいわれ,ポーズや構図にダヴィンチの「モナリザ」との類似性が見られる.2,3年前に東京・上野の西洋美術館でのコロー展で見たことがある.人物の表情が死んでいるように思う.この「真珠の女」はルーブル美術館の所蔵であるが,今回はどこかに「出張中」で見ることはできなかった.しかし,コローの風景画は素晴らしい.空気に透明感があり,森が生き生きしている.「モルトフォンテーヌの想い出」(写真34)は,特に好きな絵である.霞のかかった空気の透明感がみずみずしい.また,子供の仕草がかわいい.そのほか,数点の風景画はどれも素晴らしかった.

コローの代表作は,「真珠の女」も「モルトフォンテーヌの想い出」も「青い服の婦人」もすべてそれらの作成年は,オルセー美術館との時代的線引き1848年を越えているが,なぜルーブル美術館にあるのだろう.そういえば,アングルの「トルコ風呂」なども,その作成年は1862年頃であるが,ルーブル美術館にある.
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写真34 コロー「モルトフォンテーヌの想い出」

ルーベンス(1577-1640)は,フランドルのバロック絵画の巨匠である.フランドルは,いまの北部フランスとベルギー,オランダの一部からなる国家であった.ルーベンスの「マリー・ド・メディシスの生涯」という大作が広い部屋に展示されている.これは,アンリ4世の2番目の妻マリー・ド・メディシスの生涯を,神話から題材をとり物語として24枚の大作に表現したものである.ルーベンスの表現力は確かにある.しかし,その政治的意図がはっきりしているので,あまり真面目に見る気がしなかった.その他,ルーベンスの作品には家族の肖像などもあった.

フランス・ハルス(1582-1666)は,オランダ絵画の黄金期に活躍した画家である.ハルスは,同じオランダのレンブラント(1606-1669)より二回り年上である.昨年(2009年),東京・上野の西洋美術館での「ルーブル美術館展」でハルスの「リュートを持つ道化師」を観て,その一瞬の楽しげな表情の豊かさが印象に残った.今回,その道化師にも会えたが,それ以上に印象に残ったのは「ジプシー女」(写真35)である.この絵にも,日常的な一瞬の表情が豊かに捉えられている.女性だとすぐ裸の絵にしてしまう他の画家とは違った,月並みではない表現力がある.また,メインの部屋から横に入った小さく暗い部屋の上部の壁に教科書などで見慣れた「デカルトの肖像」が掛かっていた.有名な「デカルトの肖像」がハルスの作品であることを初めて知った.ハルスは,クールベやマネ,ゴッホなどに影響を与えたという.
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写真35 ハルス「ジプシー女」

レンブラント(1606-1669)は,疑いもなくオランダ絵画における最大の巨匠であろう.ルーブル美術館には,嬉しいことにそのレンブラントの絵画が20枚前後ある.レンブラント最大の傑作は,アムステルダム美術館にある「夜警」であるのだろう.しかし,他の画家にはない,レンブラントの特徴は自画像の多さであろう.若い22~23歳の頃から死の直前までさまざまな自画像がある.それらの自画像のうち数枚がルーブル美術館にある.レンブラントは,30代の自画像(1640作,ロンドン・ナショナル・ギャラリー)を描くにあたって,ラファエロの「バルダッサール・カスティリオーネの肖像」やティッチアーノの「男の肖像」を参考にしたといわれている.レンブラントは,生涯,オランダを出たことがない.これらの肖像画を見たのはこれらの絵がアムステルダムの競売にかけられた時であり,そのときに描いたスケッチが残っている.30代の自画像にはルネサンス時代の衣装をまとった自分を描いていることも,ラファエロやティッチアーノの影響を示しているといわれている.

美術学校の学生であろうか,数名の若者を連れた先生風の女性が,そのレンブラントの自画像群を前にして説明をしている(写真36).英語でもフランス語でもないようだ.しかし,何語か分からない.
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写真36 レンブラントの自画像のコーナー

その向かい側の壁には,ヘンドリッキエをモデルにして描いたといわれる「ダヴィデ王の手紙を読むバテシバ」がある.イスラエル王ダヴィデは入浴中の人妻バテシバを見そめ,召し入れるために彼女に手紙を送った.その手紙を読んだバテシバの心理描写を描いている.旧約聖書の一コマである.この絵の前にも人垣ができている(写真37).これもレンブラントの傑作の一つである.

にわか勉強であるが,このダヴィデはミケランジェロのダヴィデ像のダヴィデであり,背中に担いだ石投げ紐でペリシテ軍の豪傑ゴトリアを倒した.ダヴィデは走り寄って相手の剣で首を切り落とす.フィレンツェのバルジェッロ美術館にあるドナテッロとヴェロッキオによるブロンズのダヴィデ像では足下にゴトリアの首がある.

さて,バテシバの話に戻る.ダヴィデ王の寝室で一夜を過ごしたバテシバは妊娠したことを知り,そのことをダヴィデ王に伝える.驚いたダヴィデ王は,バテシバの夫ウリヤを戦場から呼び寄せ,自分のせいで妊娠したことを分からないようにさせようと画策するが,律儀なウリヤは自宅で休息することを拒み,結局,ウリヤを最も危険な戦場に行かせ,無謀な戦いで戦死させる.ひどい話だ.王宮を訪ねた預言者に諫められたダヴィデ王は,神の前に悔いて裁きを請うことになる.その後,ダヴィデ王には息子達を死なせるような悲劇が起こり,不義の子も生まれてすぐ死んだ.当時は,家臣が死ぬとその未亡人は王のものとなる習慣があったという.正式にダヴィデ王の妻となったバテシバは,再び男の子を産む.これが後に英雄ソロモン王となる.(以上,旧約聖書)
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写真37 レンブラント「ダヴィデ王の手紙を読むバテシバ」の前

フェルメール(1632-1675)もオランダ絵画黄金期の画家である.地球儀(あるいは天球儀?)を回している「天文学者」と「レースを編む女」の2作品があった.「レースを編む女」は20cm平方程度の小さな絵である.フェルメールは,日本でも人気の高い画家であるが,私にはその良さがあまりわからない.

絵画を一通り見終わったあと,リシュリュー翼の地階に降りた.ここには,19世紀前半までのフランスの彫刻が展示されている.疲れていたこともあるが,あまり心を動かされるような彫刻には出会わなかった.リシュリュー翼の1階に古代オリエント美術が展示されている.美術品というのも変であるが,ここにはハムラビ法典(写真38)がある.紀元前18世紀にバビロンの王ハムラビによって作られた玄武岩の碑である.碑の高さは2メートルを超える. 1901年から翌年にかけてフランス人モルガンによりイランのスーサで発見されたものである.文章は楔形文字で書かれており,現代の民法・刑法に対応する条文が含まれている.「目には目を,歯には歯を」は,ハムラビ法典196条,197条にあるとされる.これらの条文は,現代では,しばしば,「やられたらやりかえせ」という意味合いで解釈されることが多い.しかし,これらの条文の本来の趣旨は,予め犯罪に対する刑罰の限界を定めることにある.決して復讐を認めているわけではない.すなわち,もし誰かの目をつぶしたときに,その行為に対する刑罰は,目をつぶすことで贖われるべきである,といっているわけである.それ以上であってはならない.予め刑罰の限界を定めることで,近代の刑法にも通じる重要な規定ということが出来る.
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写真38 ハムラビ法典

同じリシュリュー翼の1階に,「コルサバードの中庭」という部屋がある.この中庭には,サルゴン2世がコルサバードに建築させた宮殿の一部が本来の位置関係の通りに置かれている.サルゴン2世は,アッシリアの絶頂期を紀元前722年から紀元前705年まで治めた王である.コルサバードはアッシリアの首都ニネヴェ(現,モスル市)から北15キロの距離である.ティグリス川の上流,現在のイラクの北部に位置する.宮殿の広さは,約10ヘクタール,宮殿の入り口には一対の雄牛像が配置されている.雄牛像の高さは5メートルで,翼を有しており頭は人と同じ(つまり人頭有翼の雄牛像)になっている.宮殿の城壁には2.5キロにわたってサルゴン2世の軍事遠征や偉業を讃える浮彫装飾が描かれている.材質は縞大理石(アラバスター)である.写真39には,人頭有翼の雄牛像と城壁の一部が見えている.その浮彫装飾ではサルゴン2世がその家臣に命令を与えているところが彫られている.さらに,その奥の壁には,少し見にくいが宮殿用の建築資材として使用されたレバノン杉が海路よりアッシリアへ運ばれている様子が描かれている.この宮殿の完成は紀元前706年であり,サルゴン2世はその翌年に死去している.サルゴン2世の死の前後1~2年,コルサバードはアッシリアの首都であった.

これもにわか勉強であるが,ダヴィデ王からソロモン王への栄華を誇ったイスラエル王国も紀元前10世紀には2つに分裂する.その分裂した一つの北イスラエル王国を紀元前722年に最終的に滅亡させたのは,このアッシリア国王サルゴン2世である.
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写真39 コルサバードの中庭

これらの装飾品は当時の在モスルのフランス領事ポール・エミール・ポッタが1843年にコルサバードで発掘したものという.ポッタは発掘したこれらの装飾品を船便でパリへせっせと送ったという.これらの装飾品もハムラビ法典もメソポタミヤ文明の文化遺産であろう.これらのものが,三千年から四千年も前にティグリス・ユーフラテス川の流域で作られたものであるということに本当に驚く.これらも,イランやイラクの文化遺産としてそれぞれの国に返すのが筋ではなかろうか.

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