旅日記,随想,俳句など…

フィレンツェ美術館めぐり2

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3.フィレンツェは街全体が美術館 

はじめに

4月16日から18日の3日間は,フィレンツェの中の美術館を廻った.16日に訪れたのは,ウフィッチ美術館,ヴェッキオ宮殿,バルジェッロ国立博物館,メディチ家礼拝堂,サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の5箇所である.ヴェッキオ宮殿(€6)とサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(€3.5)以外は「文化週間」(settimana della cultura)のお陰でただで入場できた.「文化週間」でただになるのは国立の美術館のみである.この「文化週間」のことを正確にいつから始まるのかを確かめようとしてホテルのフロントのお嬢さんに英語で聞いてみたが,まったく通じなかった.SMN駅の前にあるインフォメーション・センターに行って中年のお母さん風の女性に同じことを聞いてみたが,首を傾げられるばかりであった.こちらが懸命に,その週には美術館がただになったりするなどと,補足説明をしてやっと分かって貰えた.「文化週間」は4/16から始まることを教えていただき,さらに地図と厚いパンフレットを頂いた.どうも私の発音が,英語風のculture weekではなく,和風発音のcuruture weekとなっていたことで,ホテルのフロントのお嬢さんもインフォメーション・センターのお母さんも,さっぱり,訳が分からなかったのではないかと今では反省している.反省しても発音の癖はなかなか直らない.SMN駅のフロアに「文化週間」のポスターが張り付けてあった(写真8).
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写真8 「文化週間」のポスター

<ウフィッチ美術館>

ウフィッチ美術館には,歴代のメディチ家の美術コレクションが貯蔵されており,イタリアルネサンス絵画の至宝が展示されている.ピエロ・デラ・フランチェスカ,フィリッポ・リッピ,ボッティチェッリ,レオナルド,ミケランジェロ,ラファエロ,ティツィアーノらルネサンス期の巨匠の作品が中心となっている.イタリアルネサンス期のフィレンツェ派で忘れてはならない画家はマザッチョ(1401-1428)とフラ・アンジェリコ(1387-1455)である.マザッチョのフレスコ画はサンタ・マリア・デル・カルミネ教会にあり,フラ・アンジェリコのフレスコ画はサンマルコ美術館にある.それぞれ,18日と17日に訪問予定である.

ウフィッチ美術館にある美術品の中でルネサンス期以前の作品をひとつだけ挙げるとすれば,ジョットの「荘厳の聖母」であろう.この絵画を同時代の他の絵画と見較べると一目瞭然である.絵画を平板なものから膨らみ(立体表現)と表情のあるものへと変えたジョットは,すべての西洋絵画の祖といわれている.レオナルド・ダヴィンチはジョットのことを「自然に従ったすばらしい画家であり,過去何世紀の画家たちを凌駕した」と非常に高く評価している.

第7室にはマザッチョとマゾリーノの「聖アンナと聖母子」がある.マザッチョは,聖母子とまわりの天使のひとりのみを描き,あとはすべてマゾリーノが描いたという.マゾリーノの平板な表現が目立つ.それに比べればマザッチョの聖母子には陰影による立体感がある.ただ,幼子イエスの姿勢が不自然でぎこちない.しかし,宗教画から抜け出てきたような実在感がある.この部屋には,ピエロ・デラ・フランチェスカ(1415-1492)の作品がある.それは印象的な一対の「ウルビーノ公夫妻の肖像」(写真9)である.ピエロ・デラ・フランチェスカは,遠近法をマザッチョなどの作品から学び,数学にも精通して発展させた.この肖像画では背景に空気遠近法が使われている.この空気遠近法はダヴィンチの「モナリザ」の背景へと発展されていく.
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写真9 ピエロ・デラ・フランチェスカ「ウルビーノ公夫妻の肖像」

ウフィッチ美術館の最初のハイライトは,ボッティチェッリの間(第10室)である.ボッティチェッリの主要作品とそれらと関連する絵画が集められている.ボッティチェッリの初期の作品はその師匠フィリッポ・リッピのものによく似ている.「ヴィーナスの誕生」や「春(プリマヴェーラ)」は,大判でありやはり華やいだ雰囲気があり,かつ迫力がある.これらの絵画はメディチ家の別荘を飾るために描かれたと考えられている.注文主やメディチ家の主だった人々,さらに自画像までを描き込んだ「東方3博士の礼拝」も面白い.「柘榴の聖母」(写真10)も印象的な作品である.幼子イエスが持っている柘榴は受難の象徴であるという.わが子の受難を想ってか,聖母マリアはいくぶん虚ろな表情をしている.聖母子を天使たちが取り囲んでいる.左端の天使は,ホテルの部屋の壁にあった模写絵の天使である.ユリの花を持っていくことから考えて,マリアに受胎告知をした天使ガブリエルであるのかも知れない.
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写真10 ボッティチェッリ「柘榴の聖母」
(http://www.salvastyle.com/collect/collect.htmlより)

第二のハイライトは第15室である.ここにはダヴィンチが描いた3枚の絵がある.「受胎告知」,「東方3博士の礼拝」と「キリストの洗礼」である.「受胎告知」は20歳前後のときに描いた初々しい作品である.この頃にダヴィンチはヴェロッキオ工房における徒弟としての生活を終わり,独立してフィレンツェの画家たちが組織する団体のメンバーとなっている.メンバーとなることは,自分の工房を立ち上げ親方として仕事が出来るということである.実際にダヴィンチが自分の工房を持ったのは25歳前後である.「東方3博士の礼拝」はフィレンツェの郊外の修道院の注文により作成されたもので,ダヴィンチが1982年にミラノへ行くことになったために,未完のモノクローム状態のままにフィレンツェに残されることになった.この絵の右端の斜め横に向いた人物がダヴィンチの自画像がといわれている.「キリストの洗礼」(写真11)はベロッキオ工房で描かれたものであるが,ダヴィンチは背景と左端の天使を描いたといわれている.ダヴィンチ24歳の頃である.独立したダヴィンチであったが,ヴェロッキオ工房は居心地の良いところであったのだと想像される.写真11ではあまり明確ではないが,実物を見るとダヴィンチの描いた左端の天使と他の部分の出来映えの差は歴然としている.そのことにショックを受けたヴェロッキオは,これ以降二度と絵筆を取らなかったという逸話が伝えられている.これは単なる作り話のように思う.ヴェロッキオはこの絵の以前から,ダヴィンチの絵画の技量が自分を上回っていることは気付いていた筈である.ロンドンのナショナル・ギャラリーに「トビアスと天使」というヴェロッキオの作品がある.「キリストの洗礼」より2,3年前の作品である.この絵の中にはヴェロッキオにしては上手すぎる表現があるという.ダヴィンチの手が入っているという確かな鑑定が得られている.ヴェロッキオは,絵はダヴィンチに任せ自分は安心して彫刻に打ち込んだのではないだろうか.ヴァザーリによれば,「キリストの洗礼」はヴェロッキオが手がけた最後の絵画作品であるという.
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写真11 ヴェロッキオ&ダヴィンチ「キリストの洗礼」
(http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2009/04/post_746.htmlより)

第三のハイライトはトリブーナと呼ばれる八角形のこの部屋(第18室)であろう.ここには,「メディチ家のヴィーナス」をはじめとしたメディチ家の秀作コレクションが展示されているのだが,今回は部屋全体が修復のため閉鎖されていた.

第25室にはミケランジェロの「聖家族」などの作品が集められている.「聖家族」の中には聖母子に加えて養父の聖ヨセフが描かれている.この「聖家族」はミケランジェロの作品の中では比較的よいものと思う.しかし,私には,ミケランジェロは第一級の彫刻家であるが,画家としては第一級とはいいがたいという気持ちが強い.バチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画の迫力は確かにすごい.しかし,「署名の間」にあるラファエロの「アテネの学堂」に比べて絵画として優れているかといわれれば,私の答えは「ノー」である.ひとびとの関心や警備の重点がラファエロの「アテネの学堂」よりミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画「天地創造」や壁画「最後の審判」の方へ向いているのは,多分に宗教的な意味合いの違いにあるように思われる.

第四のハイライトは第26室のラファエロの間であろう.ラファエロの「自画像」や「ユリウス2世」,「レオ10世」,「ひわの聖母」などが展示されている.「自画像」は,あごを心持ちあげてこちらを見ている25歳頃のものであるという.今回,特に印象的であったのは「ひわの聖母」(写真12)である.修復により鮮やかな色彩がよみがえっている(もっとも,元の色彩を知っているわけではないので,「よみがえっている」ように思うということだ).修復は10年に及んだという.2008年の11月の上旬に訪れたときには,ここに貧弱な模写絵のようなものが掛かっていてがっかりした覚えがある.修復が終わって一般公開したのは,2008年の11月の下旬であったという.わずかの違いで鑑賞できなかったのであるが,それだけに今回の修復された絵に対する感激は大きい.ルーブル美術館にある「聖母子と幼子聖ヨハネ」(俗に「美しい女庭師」といわれている)と同じ頃に作成されたもので雰囲気もよく似ている.また,「レオ10世」も抑制の効いた表現で法王レオ10世の表情をとらえているだけでなく,細部の質感がよく表現されている.レオ10世は,フィレンツェの黄金時代を築いたロレンツォ・ディ・メディチ(偉大なロレンツォ)の次男で,戦争好きであったユリウス2世のあとを継いで,平和外交を展開した.法王の右後方にいるのがレオ10世の従兄弟ジュリオ枢機卿でレオ10世の死後,法王クレメンス7世となる.メディチ家からの法王が2代続いたことになる.
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写真12 修復前後のラファエロの「ひわの聖母」

ウフィッチ美術館には,以上の作品の他にも,ティッチアーノ,レンブラント,また,カラバッジョなどの作品を楽しむことが出来るが,それらの作品についての説明は割愛する(もっとも,カラバッジョの作品はローマでの「カラバッジョ展」のために出張中であった).

<ヴェッキオ宮殿>

ヴェッキオ宮殿は,ウフィッチ美術館のすぐ隣で,さまざまなフィレンツェの歴史を刻んだシニョリーア広場に面してあり,現在でもフィレンツェ市の市庁舎として使われている.ヴェッキオ宮殿の入口の前には,ミケランジェロの「ダヴィデ像」の複製がそびえている(写真13).この建物は14世紀のはじめに建てられ,フィレンツェ共和国の政庁舎として使用された.メディチ家がピッティ宮殿に移るまでの間一時的にここを住居としていたこともあるという.宮殿の中庭には,ヴェロッキオの「イルカを抱いた天使」の複製があった(写真14).オリジナルも宮殿内の3階に存在したが,こちらの方が写真写りがよい.大変かわいらしいブロンズ像である.こんな天使の像を見ながら毎日出勤してくる市長や市の職員は,きっと子供たちにとって悪い市政をすることは出来ないだろうと思う.入場券を買って二階に上がるとそこが「500人大広間」である.この大広間ではちょうど環境問題に関連した会議がもたれていた.500人よりもっと入るだけの広さがある.左右の壁面には,ジョルジョ・ヴァザーリによるフレスコ画「シエナ攻防戦」が掲げられている.2007年5月,イタリア文化庁は,ヴァザーリの壁画の下にダヴィンチの幻の壁画「アンギアーリの戦い」が隠されていると発表した.ミケランジェロの「カッシーナの戦い」と競作したものだ.どちらも未完成で終わっている.
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写真13 ミケランジェロ「ダヴィデ像」(複製)とヴェッキオ宮
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写真14 ヴェロッキオ「イルカを抱いた天使」(複製)

<バルジェッロ国立博物館>

バルジェッロ国立博物館は,主に14世紀から16世紀の作品を集めているイタリア最大の彫刻美術館である.一階には「バッカス」や「ブルータス」などミケランジェロ(1475-1564)の作品が未完成なものを含めて数点展示されている(写真15).
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写真15 バルジェッロ博物館の1階展示室

二階に上がると例のコンクールに出品されたブルネレスキとギベルティの2つの作品が並んでいる.自分ならどちらに票を入れるかを評価してみるのも面白い観賞法であろう.二階にはドナテッロ(1386-1466)の作品が数多く展示され,ドナテッロがなかなかの彫刻家であることを示している.ドナッテロ(怒鳴ってろ)ではなくドナテッロである.恥ずかしながら,今回,バルジェッロ博物館を訪問するまで,ドナテッロのことは何も知らなかった.達者な彫刻家である.ブルネレスキの親しい友人という.ドナテッロには初期の作品に大理石による「ダヴィデ像」がある.このダヴィデは衣服をまとっている.この大理石の彫刻とは別に有名なブロンズの「ダヴィデ像」がある(写真16左).どちらも,ミケランジェロの「ダヴィデ像」はとは違って足下にゴリアテの首がある.こちらの方は裸体であるが,帽子をかぶったすがたかたちが粋である.
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写真16 ドナテッロ(左)とヴェロッキオ(右)の「ダヴィデ像」

ダヴィデはユダヤの王である.したがって,ユダヤ教の宗教上の儀式である「割礼」をしている筈である.しかし,ミケランジェロの「ダヴィデ像」と同様にこの彫刻でもその痕は見えない.この理由は,①ユダヤ教(旧約聖書)に無知であったためか,それとも②ユダヤ教に挑戦的な宗教的意図を持ったためであるのか,あるいは③単に芸術上の理由に依るのか,私には分からない.①の理由はありえないと思われる.

このブロンズ像とよく似た「ダヴィデ像」がヴェロッキオ(1435-1488)によって作られた.3階にはそのブロンズ像が展示されている(写真16右).この足下にもゴリアテの首がある.こちらは服を着ている.この像はレオナルドがヴェロッキオ工房に入った頃に作成されたという.さらに,少年戦士ダヴィデのモデルを務めたのは少年レオナルドであったという説がある.入門したばかりの初々しい少年レオナルドをモデルに30歳前後のヴェロッキオが楽しそうに彫刻を作成している姿が想像される.伝記作家たちはそろって,レオナルドが美少年であったと述べている.この像を見ているとモデル=レオナルド説が真実であるように思えてくる.また,一般にはあまり知られてないが,レオナルドは高い音楽的才能を持っていた.ヴァザーリによれば,ヴェロッキオは音楽家でもあったという.そのような点からも,レオナルドはヴェロッキオとの良い師弟関係を保っていたと考えられる.

<シニョリーア広場とオルサンミケーレ教会>

バルジェッロ国立博物館からシニョリーア広場に戻ると最初に迎えてくれるのが「ネプチューン像」を中心に置いた噴水である.噴水のまわりに身体をねじった男女の裸体ブロンズ像が多数は位置されている.噴水の右側には「コジモ1世の騎馬像」(ジャンボローニャ作)が,左側にはミケランジェロの「ダヴィデ像」の複製がさらにその奥には「ヘラクレスとカクス」(バンディネリ作)がある.フィレンツェ市民には,「ネプチューン像」や「ヘラクレスとカクス」などは評判がよくないという.1532年フィレンツェ共和国が倒れ,フィレンツェ史上初の君主制,ドイツのカール5世と手を結んだメディチ君主国が誕生した.「ヘラクレスとカクス」は,それを記念して初代フィレンツェ公アレッサンドロが作らせたもので,「共和制に打ち勝つ君主制」という政治的意図が込められていたという.アレッサンドロは法王クレメンス7世の庶子であり,暴君であったという.フィレンツェ市民の反応はそのような政治的意図に対する反感であるのかも知れない.シニョリーア広場の南側に接して天蓋を持つランツィの回廊がある.ここにも14~16世紀のフィレンツェの彫刻が並ぶ.目を引くのは,「サビニの女たちの略奪」(ジャンボローニャ作)(写真17)や「メデューサの首を持つペリセウス」(チェッリーニ作)などである.
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写真17 ジャンボローニャ「ザビニの女たちの略奪」

シニョリーア広場の西側を北に行けばカルツァイウォーリ通りになる.その通りに面してオルサンミケーレ教会がある.この教会には壁龕(へきがん)がありそこにギベルティ,ヴェロッキオ,ドナテッロなどによる大理石やブロンズの像が置かれている(写真59).全部で14体の像がある.このようにフィレンツェではルネサンス期の至宝が屋外にむき出しの形で置かれている.フィレンツェ全体が屋根のない美術館といわれる所以である.オルサンミケーレ教会からさらに200m北上すれば,ドゥオーモの広場に行きつく.
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写真18 オルサンミケーレ教会の壁龕に置かれた彫刻

<メディチ家礼拝堂>

ドゥオーモの広場から200mの距離にサン・ロレンツォ教会がある.メディチ家礼拝堂は,サン・ロレンツォ教会の一部であったが,今では教会のファサード(正面)とは反対の裏側にあたる小さな入口から入る博物館となっている.ここには,「君主の礼拝堂」とミケランジェロによって作られた新聖具室がある.どちらも照明の明度が低く抑えられており,写真が撮りにくい.「君主の礼拝堂」の壁面には,世界から集められという色とりどりの大理石や貴石からなるモザイク絵で飾られて重厚な雰囲気が漂っている.重厚だが決してよい感じではない.はっきり言って,成金趣味といったおもむきである.

1520年,時の法王レオ10世の依頼により,ミケランジェロはメディチ家礼拝堂の新聖具室を設計し制作にあたった.新聖具室には3組の彫刻がある.正面には聖母子と2聖人,左右の側面には,それぞれ,偉大なロレンツォの第3子ジュリアーノ(写真19)と孫ウルビーノ公ロレンツォの墓碑(写真20)が配置され,それぞれの墓碑の前に一日を表す擬人像が配置されている.写真19では「夜」(女),「昼」(男),写真20では「黄昏」(男),「曙」(女)である.ミケランジェロは,これらを結構やばい状況下で作成していた.というのは,ミケランジェロはフィレンツェの共和制を守るために,メディチ側と敵対して戦って敗れた.メディチ家礼拝堂を作りながら,メディチ家と戦っていたわけである.法王レオ10世の後を継いだ法王クレメンス7世は,新聖具室の制作続行を条件にミケランジェロを許したが,暴君である初代フィレンツェ公アレッサンドロ・ディ・メディチは,執念深くミケランジェロの暗殺をもくろんでいたといわれている.1534年,法王クレメンス7世が没すると,身の危険を感じたミケランジェロは,未完のままローマに旅立ち,2度とフィレンツェに帰ることはなかった.擬人像のもだえたような姿勢はミケランジェロの苦悩の反映であるのかも知れない.
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写真19 メディチ家礼拝堂新聖具室のジュリアーノの墓碑
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写真20 メディチ家礼拝堂新聖具室のロレンツォの墓碑

<サンタ・マリア・ノヴェッラ教会>

フィレンツェSMN駅近くのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会は駅と反対側が,正面玄関(写真21)になっている.正面広場に行き少し疲れたこともあり芝生で休んでいると,活動的で感じのよい若い女性が近づいてきた.「どこから来たか?」とか自分は何国(東欧の国であったように思ったが国名は忘れた)出身だというような世間話から「人権を大事と思うか?」という話しをはじめ「人権擁護の署名をお願いできないか?」と尋ねて来た.署名くらいならと思い日本語の署名でよいということなので署名しようとして,出された署名用紙をみて驚いた.日本語の署名でよい筈だ.署名用紙の一番右のカラムにdonationの欄があり,€20や€30の金額が並んでいる.一番少ないもので€10であった.女性をよく見ると,日焼けして活動的ではあるがどこか薄汚れている.「人権」は隠れ蓑で,単なる金集めかという疑いがわいてきた.
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写真21 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の正面

そうそうにdonationも署名も断って,教会の中に入ることにした.入口から半ばまで進んで左の壁を向くとそこにはマザッチョの「三位一体」が掲げられている.だまし絵のように,写実的で奥行きのある絵が平面の中に表現されている.完璧な遠近法で描かれている.遠近法で描かれた最初の絵画という.マザッチョの才能が遺憾なく発揮されている絵である.しかし,私はこの種の絵があまり得意ではない.キリストが十字架に張り付けられている.それだけでなく,左右に開いた手を大きな釘で横木に打ち付けている.絵によっては,足の方も重ねられ大きな釘で打ち付けられている.血が出ていることもある.見ていて,さすがに痛くなることはないが,手や足がむずむずとしてくる.胃や腸が宙に浮いたような感じになる.私はこの絵をちょっと見で先に進む.家内ははじめからこの絵を目的のひとつにこの教会に来たこともあり,じっくり鑑賞している.

家内を置いて私は次に移る.ヴァザーリの「キリストの復活」があり,さらにジョットの「十字架像」がある.正面奥にあるゴンディ礼拝堂というところでは,ブルネレスキの木製の「十字架像」が掲げられている.この「十字架像」については,年下の友人ドナテッロと絡んだ有名な逸話がある.とにかくフィレンツェ・ルネサンス期の錚々たる芸術家の立派な作品が並んでいる.立派な作品ではあるが,このような教会の絵は苦手である.キリスト教では,キリストの受難と復活が最大の出来事であるので,この種の宗教的芸術が多くならざるを得ないのであろう.これに比べれば,仏教の仏さんや如来さん,観音さんの涼やかな姿の方が私には心安らかになれる.

この教会の隣には修道院があり,そこには「ノアの洪水」(ウッチェロ作)などの壁画が描かれた回廊に取り囲まれた「緑の中庭」があるということであったが,案内の人に聞くと今は入れないという.理由は分からないが,もう十分キリスト教の宗教芸術を堪能した.この辺でサンタ・マリア・ノヴェッラ教会をあとにしてもよいように思う.日本に帰ってから,ダヴィンチはこの修道院の一室にほぼ3年にわたって暮らしたということを知った.ちょうど「モナリザ」に取りかかった時期であった.元の「モナリザ」は,サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の回廊の2本の円柱が両端に描かれていたことが研究で明らかになっているという.「モナリザ」の模写ではないかと思われるラファエロの素描にはこの円柱が描かれている.このようなことを知ることで,また一段とサンタ・マリア・ノヴェッラ教会が身近になったように感じる.

<アカデミア美術館>

4月17日(土曜日)は,アカデミア美術館,サン・マルコ美術館,サン・ロレンツォ教会とラウレンツィアーナ図書館およびサンタ・クロ−チェ教会を訪ねる予定にしている.アカデミア美術館とサン・マルコ美術館の開館時間はどちらも8時15分である.その近くにはフィレンツェ大学やアカデミー美術院があり,若い学生が多く活気がある.観光客も多い.規模は小さいが,フィレンツェのカルチェラタンといった趣である.

アカデミア美術館には,ミケランジェロの「ダヴィデ像」のオリジナルが安置されている.このオリジナルは,作られた時から19世紀の末まで,いまの複製を置いてあるヴェッキオ宮殿の玄関先に置かれていた.天候などによる損傷を防ぐという理由からアカデミア美術館に移されたのは1873年のことである.アカデミア美術館には,「ダヴィデ像」以外のミケランジェロの作品が数点入口に近い方に置かれている.2,3の「囚人像」と「パレスティーナのピエタ像」である.いずれも未完成である.しかも掘り始めて間もないものである.ルーブル美術館にあった「瀕死の奴隷」も未完であったが,ほとんど形が出来ていて,後は細部の仕上げが残っているだけという感じであった.しかし,ここの未完成の彫刻群は,何を彫ろうとしているのかがやっと判読できる程度にしか,彫像が進んでいない.面白いもので,これがかえってこれからの彫像過程の大変さを物語っており,そのことを見る人に強く印象付けている.

ミケランジェロは,全部で4つの「ピエタ像」を作っている.ピエタとは,慈悲を意味するイタリア語であり,十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの絵や彫刻を指すことばとして使われている.4つのなかで一番有名なのがヴァチカンのサン・ピエトロ聖堂にある「ピエタ像」である.その他はフィレンツェのドゥオーモ付属美術館にあるものとミラノのスフォオルツァ城博物館にある「ロンダニーニのピエタ像」とアカデミア美術館の「パレスティーナのピエタ像」である.サン・ピエトロ聖堂の「ピエタ像」以外はすべて未完である.未完の度合いが最も高いのがここの「パレスティーナのピエタ像」である.

さて,ミケランジェロのそのような未完の作品群を見ながら進んでいくと,正面に高々と「ダヴィデ像」(写真22)がそびえている.像は5メートルを超えている.下から見上げる形になり,そのように下から見上げて不自然でないように,頭や肩あたりを大きめに彫っているという.「ダヴィデ像」のまわりには,荘厳な雰囲気が漂っているように感じる.投げ紐を肩に掛けて遠くを見つめる目付きは鋭い.決戦を前にペリシテ軍の豪傑ゴリアテを挑むように見つめている.右手には投げ紐にセットする投石を持っている.右足に重心を置いて,左足は少し遊ばせている.ミケランジェロはこの作品を1504年に完成させている.この作品以前の「ダヴィデ像」は,ドナテッロのブロンズ像(1435年)もヴェロッキオのブロンズ像(1472年)も足下にゴリアテの首を置いた戦い後の姿を表現している.しかし,ミケランジェロはそのような月並み表現を排して,戦い直前の緊張感を表現している.この緊張感が像のまわりを覆っており,これが彫刻を鑑賞する人々にも伝わっている.鑑賞者たちは緊張したおももちで像のまわりを表から裏へ回りながら像を見上げている.首が疲れて椅子に座っている人もいる.カメラを構える人がいると監視員がさっと来て,カメラはダメだと注意している.よく見ると監視員らしい人が結構たくさんいる.このような監視員の見張りも緊張感を高めるのに一役買っているように思える.それにしても,彫刻の写真撮影を禁止する理由は何であろうか.絵画であればフラッシュを嫌うことで写真撮影を禁止する理由あると思うが,大理石の彫刻にはフラッシュを含めてカメラがダメという理由が分からない.その疑問を持ったまま,アカデミア美術館を出た.
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写真22 ミケランジェロ「ダヴィデ像」
(http://ja.wikipedia.org/wiki/ダビデ像_(ミケランジェロ)より)

<サン・マルコ美術館>

サン・マルコ美術館は,アカデミア美術館のすぐ近くにあり,正面右手の入口から入ればよい.どちらもタダで入場できたのは,「文化週間」のお陰である.元はサン・マルコ修道院であったが,今は美術館となっている.サン・マルコ美術館にある主な作品はフラ・アンジェリコのフレスコ画である.フラ・アンジェリコは,グイード・ディ・ピエトロの本名を持つ修道士である.ゴシック的な優美な表現にマザッチョの立体的表現を加味して,鮮やかな色彩で特色のある絵画を描いている.信心深い修道士であったため,人々はフラ・アンジェリコ(「天使のような修道士」の意)と呼び敬愛され,それが通称となった.晩年,フィレンツェ大司教に推薦されたが,神から与えられた画僧としての仕事を続けたいということで,辞退したという.

サン・マルコ美術館には,中庭がありその中庭を回廊が取り巻いている.この回廊に面した部屋や回廊の壁には,キリストが十字架に架かったフレスコ画「磔刑図」が2,3ある.フラ・アンジェリコのものである.これらもあまり得意でない.信心深いフラ・アンジェリコはこのような「磔刑図」を描くときには,涙を流しながら描いたという.

2階には,40を越える小さな僧房があり,各僧房に「キリスト伝」の一つひとつの場面が描かれている.その2階へ上がる階段わきに小食堂がある.いまは一部がブックショップになっている.そのブックショップの反対側の壁には,ドメニコ・ギルランダイオ(1449-1494)による「最後の晩餐」がある.ギルランダイオは,フィレンツェ・ルネサンス期の人気画家のひとりである.この「最後の晩餐」では,ユダがひとりだけ長いテーブルの手前に座っている.このようにユダだけを他の弟子と分離した場所に配置するのは伝統的な描き方という.その後ろに猫がこちらを向いておとなしく座っている.

階段を上がり中程の踊り場で右に90度まわるとフラ・アンジェリコの有名な「受胎告知」(写真23)が目に飛び込んでくる.この美術館も基本的にはカメラ撮影が禁止されている.写真64は,2階に上がるときに撮影したものである.この時は上手くいった.念のために帰りにもう一度カメラを構えたところ,監視員が来て手で×印を示してダメという.ノーフラッシュと念を押してみたが,それでもダメという.しかし,2階の小さな僧房内では監視の目が行き届かず,みなさん自由にカメラに収めていた.私も「汝,我にさわるな」(写真24)という一枚を撮らせてもらった.
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写真23 階段から見えるフラ・アンジェリコの「受胎告知」
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写真24 フラ・アンジェリコの「汝,我にさわるな」


サン・マルコ修道院に関わるもうひとりの修道士ジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)について触れておきたい.1491年,サヴォナローラはサン・マルコ修道院院長になっている.時は,メディチ家のロレンツォ豪華王の全盛時代である.サヴォナローラは,説教壇から激烈な口調でフィレンツェの華美で堕落した生活やメディチ家の専制支配を批判し,信仰に立ち返るよう訴え,フィレンツェ市民の感激させた.予言していた,ロレンツォ豪華王の死やフランス軍の侵攻があったことで,信望は高まっていった.ロレンツォのあとを継いだピエロがフランス軍侵攻に対応できなかったメディチ家は追放される.フィレンツェ共和国の全権を託されたサヴォナローラはフランス軍と和議を成立させ,神政政治をめざす.しかし,ローマ法王の堕落を激しく非難したために,1497年に「破門状」を突きつけられる.少年隊を組織して,信仰の妨げになる「いかがわしい」美術・工芸品などをシニョリーア広場で焼却させた.サヴォナローラのこのような宗教的厳格さに反対派の不満は募り,人心も離れていく.暴徒と化した市民がサン・マルコ修道院に押し寄せたという.サヴォナローラは捕らえられ,法王庁から来た審問官に裁かれ,1498年5月23日シニョリーア広場で絞首刑のあとさらに火刑に処せられた.シニョリーア広場のその場所に銘板が残されている(写真25).いまでも2階のサン・マルコ修道院院長室にはサヴォナローラの遺品が保管されている.サヴォナローラは宗教的な点では立派であったのかも知れないが,ルネサンス芸術を衰退させたことは指摘しておくべきかも知れない.このサヴォナローラにすっかり感化されて,ダメになった画家にボッティチェリがいる.その作品は優雅な闊達さを欠くようになった.それに対して,ダヴィンチやミケランジェロは,まったくサヴォナローラの影響を受けていない.これらの天才は,感化を受けないだけの強烈な個性をもっていたということであろう.
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写真25 サヴォナローラが処刑された場所を示す銘板

<サン・ロレンツォ教会とラウレンツィアーナ図書館>

昨日(8月16日)訪れたメディチ家礼拝堂の裏手がサン・ロレンツォ教会のファサード(正面)になっている.ここのファサードの設計は,レオ10世によってミケランジェロに委ねられたが,メディチ家礼拝堂の項で述べたような理由で完成されないまま今日に至っている.聖堂中に入ると,主祭壇の手前に一対の箱形の青銅製の説教壇がある.ドナテッロの最晩年の作であるという.「聖ロレンツォの殉職」や「キリストの復活」テーマの浮彫で傑作とのことであるが,青銅作品で高いところにありおまけに暗いのでよく見えない.

主祭壇へと登る階段の手前の床面に色大理石による色鮮やかなメディチ家の紋章がある.ベロッキオ作という.左手のマルテッリ家礼拝堂にフィリッポ・リッピの「受胎告知」が掲げられている.この絵の中央手前に柱が描かれており,それにより絵に奥行きを持たせることに成功している.さらに奥にブレネレスキの設計による旧聖具室がある.その入口左手にコジモ・ディ・メディチの息子たちの廟墓モニュメントがある.ベロッキオ工房の作という.若きレオナルドもこのモニュメントの制作に参加したのであろう.

ラウレンツィアーナ図書館は,メディチ家の図書館でロレンツォ豪華王の時代に蔵書を増やしたという.ミケランジェロの設計により作られたもので,図書館への階段(写真26)も美しい.この階段は,ゆるやかに流れ落ちる滝の水から連想を得たといわれている.
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写真26 ラウレンツィアーナ図書館への階段

<サンタ・クロ−チェ教会>

サンタ・クローチェ教会は,シニョリーア広場から500mほど東に行けば,広場の奥にそのファサード(正面)が美しい姿を見せる.一般の見学者は,正面からでなく,左側面の中程から入場することになっている.€5の入場料を払ってサンタ・クローチェ教会は,さまざまな著名人の墓や記念碑があることで有名である.ガリレオ・ガリレイ,ミケランジェロ,マキャベリ,ギベルティなどの墓碑やダンテ,ロッシーニなどの祈念碑が両側の壁面に並んでいる.ガリレオ・ガリレイの墓が写真27である.中央に右手に望遠鏡を持ち,空を見上げているガリレオの彫刻がある.
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写真27 ガリレオ・ガリレイの墓

ピサ郊外で生まれピサ大学で学んだガリレオは,ピサ大学やパドヴァ大学で数学や天文学を教えた.第一回異端審査でローマ法王庁から,以後地動説を唱えないよう注意を受けていたガリレオは,1631年から娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの聖マッテオ修道院近くの別荘に住むようになる.翌年,フィレンツェで「天文対話」を出版.この本は,天動説と地動説を同等に取り上げ対話形式で紹介していくもので,地動説のみを一方的に唱えたものではなかった.ローマ法王庁も出版許可を与えている.しかし,ガリレオはローマに呼びだされ第二回異端審査に掛けられることになる.争点は,「天文対話」の出版が第一回異端審査の判決に違反するかどうかであった.結局,第二回異端審査で終身刑を言い渡される.あとで減刑になりアルチェトリの別荘に戻ることを許される.

この後,ガリレオは「新科学対話」をオランダで出版する.当時失明していたガリレオのために口述筆記したのは,「トリチェリーの真空」で有名な弟子トリチェリーであった.この本は,地動説を説いたものではなかったが,用心したのであろう.敬虔なカトリック教徒であったガリレオは1642年にアルチェトリで没したが,カトリック教徒として葬ることを許されなかった.許可が出て正式な埋葬がサンタ・クローチェ教会で行われたのは,1737年3月12日のことであったという.さらに,ローマ法王庁が第二回異端審査の裁判の誤りを認め,ガリレオの正式な名誉回復がなされたのは,1992年で死後350年も経った後である.

サンタ・クローチェ教会には,それらの他に新大陸発見の記念碑やレオナルド・ダヴィンチ,エンリコ・フェルミの記念碑などもあり驚いた.レオナルド・ダヴィンチの記念碑は没400年を記念して作られたものであるようだ.イタリア語とローマ数字でnel quarto centenario della morte, II maggio MCMXIX「死後400年に,1919年5月2日」とある.その他の美術品としては,ジョットのフレスコ画,ドナテッロの木彫り十字架や「受胎告知」,さらにはブレネレスキ設計によるパッツィ家礼拝堂なども印象深い.

<パラティーナ美術館>

4月18日(日曜日)は,ピッティ宮の中にあるパラティーナ美術館と近代美術館,サンタ・マリア・デル・カルミネ教会,ドゥオーモ(大聖堂)の内部と付属美術館を訪ねる予定である.ピッティ宮とサンタ・マリア・デル・カルミネ教会へ行くにはアルノ河を渡らなければならない.ヴァザーリの回廊を左に見ながらヴェッキオ橋を渡り数分でピッティ宮に到着する.このピッティ宮の中には,パラティーナ美術館や近代美術館,銀器博物館などがある.銀器博物館は1階に,パラティーナ美術館は2階に,近代美術館は3階にある.これらの美術館・博物館は国立で無料入場できる,また,開館時間はすべて8時15分である.パラティーナ美術館ではオーディオガイドを借りることにした.オーディオガイドは無料ではなく€5.5であった.日本語版はなく英語版を借りた.

パラティーナ美術館の至宝は,ラファエロの10点余りの作品である.「大公の聖母」や「天蓋の聖母」,「ヴェールを被る婦人の肖像」(別名「ヴェールの女」),「小椅子の聖母」(写真69)などがある.「大公の聖母」は,ウフィッチ美術館の「ひわの聖母」やルーブル美術館の「聖母子と幼子聖ヨハネ」(「美しい女庭師」),「牧場の聖母」(ウィーン美術史美術館)などと同様に宗教的色彩のある落ち着いた作品である.「大公」の名前は,トスカーナ大公フェルナンド3世が,旅行中も手元から離さないほど大切にしたことに由来しているという.「天蓋の聖母」は大作であるが未完である.「小椅子の聖母」は素晴らしい.他の聖母子像と異なり,宗教的色彩が払拭され,美しく愛情に満ちた市井の親子の表情が描かれている.この絵の中には小さな十字の杖を持った聖ヨハネが描かれているのであるが,それも決して宗教的な雰囲気を強めているわけではない.聖母がこちらを向いているのもこれまでの聖母子像にはないことである.残念ながら,「ヴェールを被る婦人の肖像」は,どこかへ「出張中」であった.このヴェールを被る婦人は,ラファエロの恋人で「小椅子の聖母」のモデルになっているという説がある.真偽のほどは定かではないが,確かに似ているように思われる.ラファエロの恋人であったかどうかは分からないが,ラファエロが「小椅子の聖母」のモデルに特段の感情を持っていたということは,この絵を見ていると真実のように思えてくる.
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写真28 ラファエロ「小椅子の聖母」
(http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/raphael.htmlより)


ラファエロ以外でフィリッポ・リッピ,ボッティチェリ,ティッチアーノ,ルーベンスの絵が印象に残った.カラヴァッジョの絵も通常はあるのだが,ローマの「カラヴァッジョ展」に「出張中」であった.その中でもフィリッポ・リッピの「聖母子と聖マリア伝」(写真29)は特に印象的である.まず,フィリッポ・リッピの描く女性は繊細で美しい.フィリッポ・リッピ(1406-1469)は14歳のときサンタ・マリア・デル・カルミネ教会で修道士として働き始めたときに,マザッチョとマゾリーノが同教会のブランカッチ礼拝堂に「聖ペテロの生涯」をテーマとしたフレスコ画を描いているところを見て,絵を描くことに興味を持ったといわれている.フィリッポ・リッピは,マザッチョの立体図法から多くを学んでいるように思う.フィリッポ・リッピの弟子でもあるボッティチェリは,美しく繊細な女性表現は受け継いだが,立体図法を受け継いでいないように思う.マザッチョから学んだ技術が,聖母子の背景に描かれた聖マリア伝の描写に生きている.

パラティーナ美術館を出て,しばらく休憩して3階の近代美術館を回った.急いで回ったこともあり,印象に残るような作品には出会えなかった.
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写真29 フィリッポ・リッピ「聖母子とマリアの誕生」
(http://rirari-exhibition.at.webry.info/200708/article_45.htmlより)

<サンタ・マリア・デル・カルミネ教会>

サンタ・マリア・デル・カルミネ教会は,ピッティ宮から北西に600mほど行ったところにある.今日は日曜日であるので教会内にあるブランカッチ礼拝堂へ入場できるのは13時からである.ここには西洋絵画の夜明けをつげると言われているマザッチョのフレスコ画がある.マザッチョ(1401-1428)は,彫刻家ドナテッロ,建築家ブレネレスキとともに初期ルネサンスの3大芸術家と讃えられている.

ブランカッチ礼拝堂に入るためには一般には予約が必要である.われわれは予約をしていない.予約がなくても空きがあれば,先着順に入場できる.少し早めに行くことにして,開場30分前に教会の正面玄関に到着した.しかし,並んでいる人は誰もいない.一番乗りである.安心して朝の礼拝が行われている聖堂の中に入ってみる.暗い聖堂の奥の方で司祭が説教をしている.われわれは,足音を立てないように静かに歩いて聖堂の内部を見物した.そのうちに,礼拝の終わりにさしかかったので退室して,表に出てみると教会の右側にあるブランカッチ礼拝堂の入口には2組の外人が並んでいる.階段のステップに腰掛けて並んで座っていると夫婦者と一人旅の日本人がわれわれの後ろに並んだ.二組とも予約は既にしているとのことである.用意がよい.また,二組とも,ローマで開催している「カラヴァッジョ展」を観てフィレンツェに来たということで,興奮気味にローマで観た絵の感想を言い合っている.「洗礼者ヨハネ」がよかったと言っている.その絵は,私も今年の3月に東京へ行ったときに都美術館で開催されていた「ボルゲーゼ美術館展」で観た覚えがある.少年ヨハネの裸体を純真な視点から描いていた.最晩年の作品のひとつである.

開館の時間になったが並んでいるのは10人程度である.これなら予約なしでも大丈夫である.入場券(€4)を購入するときに映画を観るかと聞かれた.30分程度という.絵を観る前に情報が多いほうがよい.映写室で30分映画を観てから,ブランカッチ礼拝堂に入ることにしよう.ヘッドホーンを渡され,英語のチャンネルが何番と教えられた.後の2組の日本人は映写室には来なかった.もう十分勉強してきているのかも知れない.映画が終わって礼拝堂に入ったときには彼らはもういなかった.

1771年,火災により教会はほぼ全焼したようであるが,幸いにもブランカッチ礼拝堂は炎を免れたという.ここの壁画は,マザッチョとマゾリーノにより「聖ペテロの生涯」をテーマに旧約聖書の一部の物語「アダムとイブの原罪」や「楽園追放」を含めて描かれたもので,未完成のままで残されていた部分をフィリッポ・リッピの子フィリピーノ・リッピ(1457-1504)が完成させたという.少年フィリッポ・リッピが修道僧としてサンタ・マリア・デル・カルミネ教会に預けられたときマザッチョとマゾリーノの絵を見ていたかも知れない.その絵の未完成部分をフィリッポ・リッピの子供が完成させたというのは巡り合わせというものかも知れない.

写真30は,上の絵がマザッチョの有名な「楽園追放」(左)と「貢ぎの銭」(右)である.下の絵はフィリピーノ・リッピにより補筆完成されたものである.「楽園追放」は,禁断の知恵の実(リンゴ)を食べたことから,神の怒りに触れ楽園を追い出されるアダムとイブの悲しみを描いている.「貢ぎの銭」は,3場面に分かれている.中心図では収税吏から税を要求されたキリストが使徒のひとり聖ペテロに指示を与え,左側では元漁師であった聖ペテロが魚から銀貨を出し,右側ではその銀貨を収税吏に渡している.明暗法による人物の立体的表現のみでなく,遠近法による立体的空間表現がなされており,これらの絵は,フィレンツェの画家に「学校」と呼ばれるほどの手本となった.これらの絵の中ではどの人物もしっかり大地を踏みしめているのもそれまでの絵にはなかった新しいことであったという.
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写真30 マザッチョ「楽園追放」(左上)と「貢ぎの銭」(右上),
下の絵はフィリピーノ・リッピが補筆完成させたもの

今日の予定は,あとドゥオーモ(大聖堂)の内部とその付属美術館である.ドゥオーモ(大聖堂)の内部は以前にも入っている.時間がなければ,付属美術館だけでも入っておきたい.ギベルディの「天国の門」とミケランジェロの「ピエタ」がある.「フィレンツェのピエタ」とか「ドゥオーモのピエタ」とかいわれている.付属美術館の入口まで行って驚いた.日曜日は,付属美術館の閉館時間が13時50分であるという.もう16時だ.明日は,朝からボローニャ,ウルビーノを訪ね,フィレンツェに帰ってくるのは夜になる.明後日は,ミラノに出発する.今回の旅行で「フィレンツェのピエタ」を鑑賞するチャンスが消えた.これらの見残しを鑑賞するために,もう一度フィレンツェに来ることを考えてみたい.

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