旅日記,随想,俳句など…

フィレンツェ美術館めぐり4

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5.ウルビーノへ 

ボローニャからリミニを経由してペーザロへ行く番だ.リミニもペーザロもアドリア海に面した観光都市である.リミニの北には,カエサルの「賽は投げられた」で有名なルビコン川(イタリア語ではルビコーネRubicone)がある.また,リミニはサンマリノ共和国への玄関口としても観光客を集めている.ペーザロは,イタリア・オペラの大作曲家ロッシーニの生まれた町である.ボローニャからペーザロまでは,列車で1時間あまりであるが,列車の到着が遅れたこともあり,次々に遅れて,予定時刻より30分ほど遅れてペーザロ駅に着いた.ペーザロからは,アドリアバスを利用して1時間前後でラファエロの生まれた町ウルビーノに行くことができる.駅前の売店で帰りの分を含めてバス券を4枚買った.バス券1枚で€3である.売店の小父さんにウルビーノ行きのバス停の場所を尋ねた.アッカであるという.こちらが納得のいかない顔をしていると,アッカ,アッカ,アッカと当然のように繰り返す.こちらも分からないので困った顔をしていると,紙に「H」と描いてくれ,さらにアッカ,アッカという.イタリア語でHはアッカであるらしい.言われた通りにアッカ(H)の駐車場の近くで待っていると,顎を少し突き出し,横を向いたラファエロの自画像を描いたバスが来た.この絵はラファエロの自画像として有名であるが,ラファエロが描いたにしては平板であっさりしすぎているように思う.弟子が描いたものであるのかも知れない.このバスがラファエロの生まれた町ウルビーノUrbinoに行くのだろう.Urbino行きの表示を確認してバスに乗り込む.

ペーザロからウルビーノまでは直線距離で30キロはあり,エンポリからヴィンチまでに比べれば距離は2倍以上で,高度も高いようだ.ウルビーノのバス停について驚いた.バス停は,ウルビーノの町の外周に位置していて,その内側がこんもりと盛り上がっている.城壁に囲まれた内側はまさに要塞都市で,「天空の城ラピュタ」のモデルといってもよいような形をしている.「ラピュタ」のモデルは,他にもモンサンミッシェルやカンボジアのベンメリア遺跡など様々いわれているが,実際にはモデルはないということのようである.

ウルビーノ訪問の目的は,ラファエロ・サンティ(1483-1520)の生家と国立のマルケ美術館,それに何よりラファエロが少年時代を過ごした町の雰囲気を味わってみたい.ウルビーノの旧市街は,幸いにも中世の町がほぼそのまま残っている中世都市であるという.

バス停近くの城壁の隙間を越えると城壁の上まで運んでくれるエレベーターがあった.有料で50セント.エレベーターを降り,道路を渡ってレンガで作られたスロープを左へ上がっていくと広場に出た.左が教会で右がドッカーレ宮であるようだ.ドッカーレ宮は,現在,そのままマルケ美術館として使われている.ウルビーノ公国の名君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが建てた宮殿で,ここに多くの文化人を集めルネサンス文化を開花させた.

そのひとりがピエロ・デラ・フランチェスカである.ピエロ・デラ・フランチェスカは,フェデリーコ夫妻の対の肖像画「ウルビーノ公夫妻の肖像」(写真50)を描いた初期ルネサンスの巨匠である.マルケ美術館には,「セニガリアの聖母」と「キリストの鞭刑」が展示されている.そのほかにラファエロの「黙っている女」という肖像画もある.マルケ美術館が年中無休であることは旅行案内書で確かめている.今日は月曜日でいまは3時近いが,入れるはずである.しかし,門が閉まっており中に入れない.中から出てきた人がいたので,美術館の入口はここでないのかと聞いてみたところ,月曜日は午後2時で閉めているとのこと.ウルビーノに来た目的のひとつが出来ないことになり,すこし落ち込んだ.あとで旅行案内書をよく見ると,休日なしという点は正しかったのであるが,月曜日の開館時間は8:30 ~ 14:00と他の曜日の開館時間8:30 ~ 19:15に比べて短くなっていた.こんなことなら午前中にウルビーノを訪問して,帰りにボローニャに立ち寄る,インターネットで予約したとおりに切符を買っていき先にウルビーノに来ればよかったのだが,いずれにしろ後の祭りである.教訓として,美術館に休日がないからといってすべての曜日が同じ開館時間とは限らない,休日の有無だけでなく曜日ごとの開館時間をしっかり見て訪問することが肝要であろう.しかし,そんなことは当たり前で,こんな失敗をするのは私以外にはいないのかも知れない.

気を取り直してウルビーノの旧市街を歩き中世の町の雰囲気を味わってみることにした.城壁に囲まれラウルビーノの旧市街は,南北1キロ,東西500メートルの広さである.ドッカーレ宮あたりが一番高くなっている.ここから200 ~ 300メートル行ったところに共和国広場があり,そこが街の中心であろうか.そこは鞍部になっている.ドッカーレ宮からは下りながら向かうことになる(写真35).道は狭い.共和国広場の周りにはレストランがあり,野外におかれたテーブルを囲んで若い学生風の男女がコーヒーなどを飲んでいる.ウルビーノは1万5千人ほどの街であるが,ウルビーノ大学という総合大学がある.1506年の創設という.
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写真35 ウルビーノのメインストリート

共和国広場からラファエロ通りを300メートルほど北西に登り切ったところにローマ広場に至る. その中程に3階建ての大きな家があり,それがラファエロの生家である(写真36).結構立派な家だ.レオナルド・ダヴィンチの生家とは雲泥の差である.ラファエロの父親は当時ウルビーノでは著名な画家であ
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写真36 ラファエロの生家

った.ラファエロは父親の工房でデッサンや絵画の初歩を学んだと考えられている.しかし,ラファエロが11歳の時父親は死んだ.母親はその3年前に亡くなっている.両親には早く分かれることになったが,親戚筋や父親の弟子など多くの人に囲まれて過ごしたのではないかと思われる.14歳までラファエロはウルビーノで過ごしたという.ラファエロが過ごした中世都市ウルビーノは城壁で仕切られていた.ラファエロは,少年時代のほとんどを城壁の中で過ごし,城壁の外に出ることは余りなかったのではないかと思う.城壁外の自然に触れることは滅多になかったのではないだろうか.その意味で,レオナルド・ダヴィンチの生い立ちとは随分違っているように思う.ラファエロには,シティーボーイという雰囲気がある.そのような雰囲気は,以上のような生い立ちが関係していたのではないだろうか.

ラファエロのこの生家に「聖母子像」というフレスコ画のオリジナルが残されている(写真37).これは,ラファエロの最初の作品ではないかといわれている.雰囲気を持った作品である.もしこれがラファエロのウルビーノ時代の作品であるなら,ラファエロは,少年の頃からやはり天賦の才を持ち合わせていたのであろう.
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写真37 ラファエロ 「聖母子像」

ブックショップでラファエロについての本と「聖母子像」の絵はがきを購入してラファエロの生家を出た.ラファエロ通りをさらに登ってローマ広場に着くと,パレットと絵筆を左右の手に持った巨大なラファエロの銅像が迎えてくれる.ここにはウルビーノに関連した人々の胸像も並んでいる.その中にフェデリーコ公とピエロ・デラ・フランチェスカの胸像を見つけた.ローマ広場の北側にはマルケ州の緑の丘陵が広がる.天気がよければ,サンマリノ共和国が見えるという.ここから共和国までの距離はわずか30キロである.それらしい町並みがいくつか見えたが,どれがサンマリノ共和国かは分からなかった.

帰りにはもう一度ラファエロの生家の横を通りすぎ共和国広場のある鞍部まで下り,そこを右に曲がって降りていくと城壁の門にたどり着く.その門を出たところがペーザロへ向かうバスの発着場である.

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